Don't Believe Pizzicato Hype, But I Love Pizzicato Hype.


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ピチカート・ファイヴの「カップルズ」と「ベリッシマ」が約30年の時を経て再発された。というわけで、いつもの思い出話。「女性上位時代」が発売された1991年に、大学の音楽サークルの機関誌に書いた文章。

 

~↓以下、再録↓~

 

男の子ー女の子がなくした欠片の一部。または、いくぶん情けないもの。女の子ー男の子がなくした欠片の一部。または、いくぶん強いもの(ある字引から引用)。

 

そう、男の子はいつも少し情けないし、女の子はいつも少し強い。ピチカート・ファイヴを聴くたびにそう思う。それは別に「すごく素敵な女の人にすごく非道いことをされたい」という小西康陽氏の発言のような願望ではない。ただ単純に、そう思っているだけだ。僕は別に冷たいお仕置きなんてされたくないし、今まで一度だって好きになったり、付き合った女の子に「君は僕の女王陛下だ」なんて言ったこともない。

 

ー言ったこともない? そうだ、考えてみれば僕は今までいわゆる愛の告白なんていうものを言葉にしたことがなかった。でもそれは「愛してる」って言えないじゃなくて、ただ単純に「言葉にできない」だけ。言葉にした瞬間、それは希薄で曖昧な水溶液になるだけなんだ。だから、言葉にしない。言葉にできない。

 

そう、男の子はいつだっていくぶん情けない。たまに、情けなさ過ぎるぐらいになってしまう。いくぶん情けない男の子を見て、いくぶん強い女の子はどう思うだろう。やっぱり冷たいお仕置きをしてやろうと思うんだろうか。笑うんだろうか。「女王陛下とお呼び!」なんてすごむんだろうか。それとも自分がなくした欠片の一部を取り戻そうとするのだろうか。

 

ー欠片を取り戻す?  男の子も女の子も自分のなくした欠片の一部を探そうとしているんだろか。お互いに欠片を見つけ出した時、情けなさと強さは中和されて、「恋」が生まれるんだろうか? でも男の子はいつだって「言葉にできない」なんて情けないし、女の子はいつだって「冷たいのが好き」なんて強いし…。ほら見ろ、やっぱり「言葉にできない」じゃないか!

 

Don' t Believe Pizzicato Hype,  But I Love Pizzicato Hype.

 

~↑以上、再録↑~

 

ピチカート・ファイヴの「恋するテレビジョン・エイジ」に、「愛してると言って 今すぐ嘘でいいから」という歌詞がある。再録した文章はこの一節にインスパイアされたものである。

THAT’S MISSERABLE ENTERTAINMENT!~1991年のモリッシー来日公演再録


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Twitterモリッシーが来日することを知った。今から約四半世紀前、モリッシーは初来日を果たした。あの頃はその後何度も来日するとは思わなかった。というわけで、いつもの思い出話。大学生の頃所属していた音楽サークルのファンジンに書いた、1991年9月1日の武道館公演の再録。

 

~↓以下、再録↓~

 

モリッシーが遂に日本にやってくる。ライブ会場をスミスTシャツを着て花束を持ったファン達で溢れさせ、ステージに登ってモリッシーにキスをするというウォールバーハンプトン儀式を繰り返しているワールド・ツアーの一環としてだ。

 

だけど、日本ではそうはいかないはずだよ、モリッシー。きっと会場は厳重な警備がしかれて、誰もあなたに抱きつくことなんてできない。それに僕らはあなたの命である詞の意味をほとんど理解しちゃいない。僕らは何言われたって「イェー!」しか言わないんだから。おまけに僕らはあなたを単なる「モリッシー」だと思っていない。「スミスのモリッシー」としてあなたをとらえているんだ。こんな状況であなたはライブをやるんだ。こんなに最高な「孤独」をあなたに与えることができて、僕はすごく嬉しいよ。だって、あなたは「孤独」が大好きなんでしょ。

 

ライブを待つ僕の心は、いささかこんなくだらないアイロニーに満ちていた。だか、モリッシーという異形の人はそれだけ僕の中で大きな存在感を持ち、僕の価値観を大きくつき動かした人なのである。阿保らしいと思われるかもしれないけど、それだけひどい気後れと焦燥感と不安を僕は持っていたのだ。聴くたびにスピーカーの向こうで巨大化する、モリッシーという「カタマり」に押し潰されそうだったのだ。

 

結果的にライブは素晴らしかった。バックを務めるロカビリー兄ちゃん達の演奏が下手っぴでも、警備がやたらに厳重でも、僕はすごく満足だった。モリッシーはあのナルシスティックなクネクネ躍りを思う存分僕に見せつけ、二回も脱いでくれた。とりとめもなく生のエネルギーを放出するかのように、立て続けに歌う彼の姿は巫女のようにも生け贄のようにも見えた。そこには「伝説」も「貫禄」も何もなかった。

 

ただ彼がそこにいて僕がここにいる。一つの同じ空間の中にいる。周りの奴等なんて僕の目には入らない。ただ彼の姿だけが見えるその喜び。その喜びを、僕はただ素直に受け入れさえすればいい。それだけで、充分なんだ。共有するものなど何もない、断絶された空間。叫びは、花束は、想いは、すべてモリッシーにのみ収束される。だが、そこには一人ひとりのためのひどく心地よい開放感に満ちていた。単純に見られてすごく嬉しかった。今はそれだけで良かったんだと思っている。

 

「人が何と言おうと、とにかく僕は勝った。戦いはすでに終わってしまったんだよ」。ー確かにそうなのかもしれないね、モリッシー

 

~追記~

タイトルはモリッシーがジャムの“That ’s Entertainment”をカバーしていたので。この時のライブでは、スミスの曲はやっていない。

厳重な警備をかいくぐって、モリッシーに抱きついた男性がいたことが話題になったが、僕はモリッシーに抱きつきたいたとは思わなかった。

 

 

小沢健二のライブがGターr ベaaス Dラms キーeyズであった所以


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6月12日、Zepp  Diver City で小沢健二のライブを見 ることができた。小沢健二がソロ・デビューして四半世紀近く経つが、1993年、日比谷野外音楽堂でのデビューフリーライブは並んだが会場に入れず、小雨が降るなか、漏れる音を外で聴いて以来、なんとなく見ることが出来ない人と思い、その後もライブに行かなかった。しかし、今回のライブ前は半ば義務感で行くと言ってた友人が、鑑賞後、絶賛していたので、見れるうちに見ておきたいと思うようになった。幸い前々日にTwitterの相互フォローの方にチケットを譲って頂くことになり、初のライブとなった。

デビュー後、小沢健二は2ndアルバム『LIFE』がヒット、テレビの歌番組に出演し、芸人に物真似されるお茶の間の人気者になったが、その後、3rdアルバム『球体が奏でる音楽』ではダン・ヒックスのようなスウィング・ジャズ、4thアルバム『Eclectic』ではディアンジェロのようなネオソウルに挑戦し 、さらに5thアルバム『毎日の環境学』では最大の特徴であった歌詞を棄て、フュージョン・タッチのインストゥルメンタルに挑んだ。アルバムを出せば出すほど、評論家やリスナーは小沢健二の音楽をどう評価すればいいのかわからず、歌詞にばかり注目するので、嫌がらせのように歌詞を放棄したのではないか、と勘ぐった覚えがある。

相変わらず前置きが長くなったが、今回のライブで小沢健二が新曲を披露することが事前にわかったので、今度はどんな音楽に挑戦するのかが、僕の最大の関心だった。

バンドの編成は、小沢健二のヴォーカル&ギターのほか、ギター、ベース、ドラム、(パーカッション、アナログ楽器(テルミンなど)。バックバンドというより、小沢健二バンドと言ってもいいほど、演奏に一体感があった。(Sensuous TourのCornelius Groupを思い出した)

演奏される音はファンク、しかもラブリーの元ネタのベティ・ライトのような今でもクラブで通用する70sではなく、日曜の昼間にMXで放映されているDisco Trainで選曲されそうな80sのディスコのり。それも黒人のねちっこさを白人が洗練したもの、ナイル・ロジャースがプロデュースしたホール&オーツデヴィッド・ボウイデュラン・デュランのような音に近く、ギターのカッティングが躍動感あるリズムを生み出す。新曲だけでなく、既存曲の「大人になれば」も16ビートのジャズから、横ノリのディスコ・ファンクに大胆にアレンジされていた。

あくまで推測なのだが、小沢健二が自身の復活のライブ・ツアーで新曲を披露するにあたって、3rd~5thアルバムの時のようにひねり出そうとしたのではなく、自然に生まれた曲ではないだろうか。小沢健二は1968年生まれ、中学生になって洋楽に興味を持ち始めた頃に、上記のナイル・ロジャース・プロデュース作品が人気だったはずだ。この辺りの洋楽を小沢健二が当時好きだったのかどうかは定かではないが、あれだけ流行っていたのだから身体が覚えているリズムなのではないだろうか。

もちろん新曲だけではなく、「ラブリー」「ドアをノックするのは誰だ?」「強い気持ち・強い愛」「さよならなんて云えないよ」などのヒット曲も演奏し、これらの曲はほぼ発表時のままのアレンジだった。新曲より、既存曲の方が観客の反応が大きかったことは当然であり、本人も最初からわかっていただろう。それでも、新曲を演奏する前に必ずプロジェクターにタイトルと歌詞を写し出し、これから新曲を演奏するよとわざわざ知らせる演出から、新曲の演奏の方が力が入っていたと感じた。

新曲7曲+既存曲10曲を小沢健二はほぼノンMCで演奏し続けた。時々おどけた振り付けをすることはあったが、かつての王子キャラは全く感じられなかった。キャラ重視のパフォーマンスグループや最新のテクノロジーを取り入れたユニット的グループが席巻する中、バンドが生み出すグルーヴを重視した演奏スタイルはどちらかと言えば時代遅れかもしれない。しかも日本人が好きな縦ノリではなく、横ノリである。それでも過去の栄光を背負いながらも自分が好きなバンド・サウンドを鳴らしたいんだ、という前向きの姿勢は、小沢健二に対する誉め言葉には似合わないかもしれないが、真面目なひた向きさを感じ、音楽を聴き続ける同世代としてかなり心を打たれた。

ここまで読んで頂いた方は、新曲の歌詞について全くふれてないことに気づいたと思う。新曲の歌詞について書かないのはライブ評としては片手落ちかもしれないが、小沢健二に対する評は歌詞に偏重する傾向があり、音楽についてはあまり語られていなかったので、こういう書き方をした。何より今回のライブは僕にとってそれだけ音楽的に印象深く、だから、今回のライブのタイトルが、「魔法的  Gターr ベasス Dラms キーeyズ」だったのではないか、ということでご容赦頂きたい。

ライブの曲目はこちらをご参照ください。

二年足らずの転校生~2016年はフリッパーズ・ギター25周忌


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これから夏休みという一学期の終わり、僕が通う学校に、急に男子の二人組が転校してきた。
 
二人は、これまで僕らが見たことのないお洒落な格好をしていて、僕らが知らない音楽や映画をたくさん知っていた。二人は瞬く間にクラスの人気者になり、大人である先生も一目置く存在になった。みんなが仲良くなりたがったが、彼らは自分達のお気に入りとしか付き合わなかった。
 
僕も二人が話す音楽や映画のことが気になり、できれば仲良くなりたいなと思っていたが、時々彼らが嫌いな奴を口汚く罵るのは苦手だったし、ご機嫌とりの取り巻き連中はもっと嫌いだった。
 
ところが、次の次の年の秋が始まる頃、二人は突然、それぞれ別の学校に転校していった。お互いの趣味が変わって喧嘩別れしただとか、同じ女の子を好きになって取り合っただとか、取り巻き連中が噂話をすることはあったが、クラスのほとんどは二人のことを忘れた。
 
僕は結局、二人と話さずじまいだったが、彼らが好きだった音楽や映画のことは今でもよく覚えている。
 
 
なんてね。陳腐な例え話だが、これが僕のフリッパーズ・ギターの印象である。
 
大学一年生の時にバイトしていたレンタル・レコード屋に『海へ行くつもりじゃなかった』のCDが一枚入荷し、「これ良いよ」と2つ上の先輩がかけた。「ビートルズみたいだ」と先輩に言った。まだ流行りの洋楽や邦楽しか知らない自分にとっては最大級の誉め言葉のつもりだったが、先輩に「いや、ネオアコだよ。オレンジ・ジュースとかモノクローム・セットとか」と、知らない音楽ジャンルとバンド名を言われた。さらに「あれ?邦楽コーナーに置くんですか?英語ですけど」と僕が言うと、「いや、日本人だよ。俺らとあんまり歳変わらないみたいだよ」と言われ、さらに驚いた。
 
(余談だが、若杉実氏著『渋谷系』によると、ポリスターのディレクターの岡一郎氏は、フリッパーズ・ギターの前身バンド、ロリポップ・ソニックのデモ・テープを聴いて、ビートルズ的だと感じたという)
 
ちょうど、ストーン・ローゼズのデビュー・アルバムが話題になり、イギリスのインディーズ・シーンが盛り上がっていた。こちらにもタイミングよくハマったため、ライブハウスやレコード屋でしょっちゅうフリッパーズ・ギターの二人を見かけるようになった。
 
偶然にも大学の音楽サークルの先輩がロリポップ・ソニックの頃からのファンで、仲もよく、「学園祭に誘うよ」と言ったことがある。サークルで模擬店クラブをやっていたので、DJを聴いて貰えるかもと緊張した。結局二人は来なかったが、カジヒデキさんが来て、モノクローム・セットの「Jacob’s Ladder」で踊ってもらえたのは、いい思い出である。
 
フリッパーズ・ギターのファンジン『FAKE 』を作っていた中沢明子さんと大塚幸代ちゃんと知り合い、FAKE主催のクラブ・イベント『FAKE HEAD’s NIGHT』でDJをする機会もあった。ヘブンリーのライブを見に行った時に、小山田圭吾さんがいたので、「DJやります」とフライヤーを渡したが、来て貰えるどころか、開催直前にフリッパーズ・ギターが解散してしまった。
 
(FAKE HEAD's NIGHTのこと↓)
 
ライブは『海へ行くつもりじゃなかった』のリリース後と、『ヘッド博士の世界塔』のリリース後の2回見たが、前者はウチ輪乗り、後者はオリーブ少女満杯で酸欠と、あまりいい印象は正直ない。
 
今でも3枚のアルバムは時折思い出しては聴く。特に『カメラ・トーク』は、個人的に思い入れがある。このアルバムのおかげで黄金の七人クロディーヌ・ロンジェを知り、映画音楽やソフトロックを聴くようになったのだから。
 
クイック・ジャパン38号の解散10周忌企画「ノー・モア・フリッパーズ・ギター」でも書いたが、フリッパーズ・ギターが残した最大の功績は、音楽を作る人(ミュージシャン)、売る人(CDショップ)、聴く人(リスナー)がつながったマーケットを誕生させたことだと思う。事実、彼らが元ネタにしているからということで、再発されたCDは数多くあり、それによって今まで聴いたことがなかった素晴らしい音楽に出会えた人は当時、多かったはずだ。
 
フリッパーズ・ギター解散から四半世紀が経ち、彼らが元ネタにした映画音楽、ソフトロック、サイケはもちろんのこと、ネオアコもマンチェも前世紀の遺物である。しかしそんな時代の隔たりなど、CDからさらにストリーミング再生に移行し、過去の音楽にも自由にアクセスでき、総てのジャンルの音楽が(一応は)平等に陳列される今では、関係のないこと。良い音楽はいつ聴いたって良いのだから。
 
昔語りを老害とする向きもあるが、25周忌を迎えたフリッパーズ・ギターが、未知の音楽の世界の扉を開くきっかけになれば、と思う。青春は一度だけ、かもしれないが、音楽に閉じ込められた輝きは不朽なのだから。
 
 

僕の東京レコ屋ヒストリー

若杉実さん著『東京レコ屋ヒストリー』を読み終えた。日本最古の輸入レコード店から、1970年代の海外買い付け事情、1980年代に拡大した輸入レコード屋の栄華、1990年代の“渋谷系”を産んだ宇田川町のレコード屋の争い、そして現在一部でまた盛り上がりつつあるレコードの状況まで、綿密な取材で綴られており、とても読み応えがあった。

 
という訳で毎度のことだが、のっかって、僕の東京レコ屋ヒストリーというか、思い出話。初めて輸入レコード屋に行ったのは中学生で、渋谷の宇田川町にあった頃のタワーレコード(現在サイゼリア)。洋楽を聴き始め、雑誌『ミュージック・ライフ』を熱心に読んでいた頃で、巻末に掲載されていたイギリスのヒットチャートで当時1位だったが、日本ではまだリリースされていなかったポール・ハードキャッスルの12インチシングル「19」が欲しくて、行ったはずだ。
 
地元の小さなレコード屋(千代田商会というレコード屋とは思えない屋号)しか行ったことがなかったので、タワーレコードの広さに驚き、店内をうろつくメタル・ファッション、パンク・ファッションの客にびびった。中学生のお小遣いで12インチシングルを一枚買うのがやっとだったが、見たことのないレコードのジャケットを眺めるだけでも楽しかった。しかし、何度か行くうちにタワーレコードアメリカのレコード屋であることがわかり、僕が好きだったイギリスの音楽に強いCISCO(2007年に閉店)を知り、行くようになった。
 
大学生になり、アルバイトをするようになってからは、レコ屋通いが日課になった。1989年にストーン・ローゼズのデビュー・アルバムがリリースされ、UKインディーズに夢中になり、愛読書が「ロッキング・オン」に変わった。NHKの衛生放送の番組「トランスミッショッン」で大型新人と紹介されたRIDEのデビュー12インチシングル(通称:赤RIDE)が欲しかったのだが、まだCISCOに入荷されていなかった。所属していた大学の音楽サークルの先輩に渋谷にある輸入盤屋のZESTに行けばあると教えてもらったのだが、行ってみたら雑居ビルの小さな一室で、すごい緊張したのを覚えている。
 
やがて渋谷にレコ屋・CD屋が次々とできた。WAVE(現在のLOFT)、HMV(現在のパチンコ屋マルハン)と大型店がオープンし、イギリスのジャイルス・ピーターソンや日本のUnited Future Organizationなどによるジャズ・ブーム、橋本徹氏主宰のサバービアによるフリーソウル・ブームが起きてからは中古レコード屋が一気に増えた。当時僕がよく通っていたのは、SOUL VIEW、PERFECT CIRCLE、RECORD FINDER、FANTASTICAなど。中でも、Hi-Fi Record Storeが一番好きで、レコードだけでなく、店長の大江田信さんの音楽話を聞くのが楽しみだった。ハワイの音楽に興味を持った頃、大江田さんが大好きなハワイのスラッキー・ギターのお話を聞かせてもらい、「こういうの好きなんじゃないかな」とわざわざバックヤードから取り出してきて、売ってもらったRay Pelartaのレコードは今でも宝物だ。
 
大江田さんは、「レコード屋は対面接近商売」だとよく仰っていた。
「SPの時代はそれこそ漢方薬の薬屋さんみたいなもので、おじさんがちょこんと座っていて、その後ろにレコード棚が並んでいた。またはSPをお屋敷にかついで行き、聴いてもらって買ってもらっていた。レコード屋はいわば『番頭のいる商売』で、僕はそんな店を目指しているんです」(モンド・ミュージック2より一部抜粋)

2000年代に入ると、渋谷宇田川町のレコード屋ブームも下火になり、通っていた輸入盤屋・中古屋がどんどん閉店していった。僕も体を壊して仕事を休んでいる間に、レコ屋に全く行かないようになってしまった。ところがDMRの跡地にHMV Record Shopが開店し、2013年からはレコード・ストア・デーも始まり、レコードに対する注目が盛り上がりつつある。事実、CDの売上が下降し続ける一方で、レコードの売上は増加傾向にある。

http://matome.naver.jp/m/odai/2141872304627860001

もっとも、レコードの売上が増えても、それを売るレコード屋が活性化してこそだと思う。若杉実さんも書いているように、レコードはもとめるものではなく出会うものであり、その出会いをもとめてレコード屋に行くのであって、その出会いには大江田さんが言う番台のような人がいてほしいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

東京レコ屋ヒストリー

東京レコ屋ヒストリー

 

 

町の中華料理屋さんが好き


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妻が出かけていたり、残業で遅くなると、大抵中華料理屋で夕飯を食べる。中華料理屋と言っても、本格的な店ではなく、日本人または在日の中国人が経営している町の中華料理屋。天津飯、タンメンといった本場の中国にはない、日本人が考案したメニューがある大衆的な店が好きだ。

 
最近は渋谷宇田川町の某店によく行く。別に隠れた名店というわけではない。なにしろ交番の近くにあるのだから。カウンターと四人テーブルが2つの小さな店で、腹を空かせた男達でいつも混んでいる。たまにいかにもの渋谷ギャルが餃子を摘まんでいることもあるが、どこにでもよくある町の中華料理屋だ。
 
よく注文するのはスーラータンメン+半チャーハンのセット。スーラータンメンを食べつつ、酸っぱ辛いスープでチャーハンを流し込むのが好きだ。冷たい空気で冷えきった体が直ぐに暖まるから。
 
町の中華料理屋では、大抵音楽は流れていない。カウンター中心の店で一人で来てる客が多いので、話し声もあまりなく、皆黙々と食べる。店員が片言で「○○ラーメンセットー」と注文を繰り返す声だけが店内に響く。
 
食べ終わったら、「ごちそうさん」を言い、会計を済ませ、さっさっと出ていく。店に入って出るまで20分ぐらい。あっという間だが、自分では結構気に入った過ごし方である。
 
小西康陽さんのエッセイ『これは恋ではない』でも、好きな食事として町の中華料理屋さんの話が出てくる。僕はこのエッセイが愛読書なのだが、と言っても別に小西さんの真似をしているわけではない。男の子はみんな、女の子が好きなように、町の中華料理屋さんが好きなのだ、きっと。
 

 

 

 

これは恋ではない―小西康陽のコラム 1984‐1996

これは恋ではない―小西康陽のコラム 1984‐1996

 

 

 

 

 

なぜ今さらブログを始めたのか~人生は驚きの連続だ。

2015年が終わる。振り返ってみれば、今さらブログを始めるとは思っていなかった。

きっかけは、ライターの大塚幸代ちゃんが亡くなったこと。彼女の訃報があってから、ネットに垂れ流される書き込みを見ていたが、クイックジャパンオザケンの追っかけをした非常識なライターという認識が大半だった。それを見ていると自分までそう思ってしまうような気になり、自分の覚えている幸代ちゃんのことを書き留めておこうと思ったのだ。

幸代ちゃんが記憶の箱を開けたのか、不思議なことにその後、ちょっとした“渋谷系リバイバル”が起きた。小沢健二の雑誌『Monkey』の寄稿、小西康陽のPIZZICATO ONEのアルバム『わたくしの二十世紀』と野宮真貴のアルバム『世界は愛を求めている。~野宮真貴渋谷系を歌う』のリリース&ライブ、サバービアの名盤CD再発、樋口毅宏の小説『ドルフィン・ソングを救え!』の発刊…。渋谷系が好きだった人とのTwitter相互フォローも増えた。

フォロワーさんのツイートで、小沢健二が「人間は12月になると回顧に入るから、1年の十二分の一を回顧に費やしていることになる」と何かの雑誌のコラムで書いていた、というのを読んだが、自分は12月になるとどころか、一年中回顧に費やしているようなものだった。もう人生の半分を生きたのだから、昔語りが増えるのも仕方がないかもしれないし、「その素晴らしさを伝えていくのが、愛する者の務めではないだろうか」(『ドルフィン・ソングを救え!』)とは思う。

ただ、これからもまだ最良のものが来ることを願うのなら、ノスタルジーに浸ってばかりはいられない。年をとって少しは賢くなっても、何かの助けにもなるわけではない。人生は驚きの連続なのだから。


ア・ライフ・オブ・サプライジズ

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