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僕と幸代ちゃんとフリッパーズ・ギターと

僕が大塚幸代さん(以下、幸代ちゃん。馴れ馴れしいが当時そう呼んでいたので)に会ったのは、1991年の9月ぐらいだったと思う。アルバイト仲間のT嬢に「フリッパーズ・ギターのファンジン作ってる娘と知り合ったんだけど、会ってみない?」と誘われたのがきっかけだった。当時、僕はフリッパーズにはまっていて、バイト先のレンタルレコード屋でいつも彼らのCDをかけていた。

 

どこだったかは忘れたが、ファンジン「FAKE」を一緒に作っていたN嬢とともに幸代ちゃんに会った。T嬢とN嬢はすでに面識があったのですぐ盛り上がっていたが、初対面の僕は何を話せばいいかわからず、しばらくだまっていた。少ししてから幸代ちゃんが僕に向かって「あのお、失礼ですけど、誰かに似てるって言われたことありませんか?」と訊いてきた。僕が「あまり言われたことないけど…中学生の頃、水泳部のコーチに舟木一夫に似ているといわれた」と答えると、彼女はツボにはまったのか大笑いし、「ためらい傷ありますか?!」と突っ込んだ。僕より若い(僕だって当時まだ21歳ぐらいだが)のに、古いネタ知ってるおもしろい娘だなと思った。


場が和み、とりとめのない音楽談義をしているうちに、FAKE主催のフリッパーズナイトをやりたいという話になり、DJをやってもらえないかという話になった。当時、僕はT嬢とクラブを借りてDJの真似事をしていたので、僕らでよければと引き受けた。

 

FAKEの二人の行動力はすごく、あっという間にクラブの予約、フライヤーの準備、ネームヴァリューのあるゲストDJの出演依頼を進めた。イベント名はフリッパーズのサードアルバム「ヘッド博士の世界塔」にちなみ「FAKE HEAD’S NIGHT」と名付けられた。すべてが順調だったと思ったが、予期せぬことが起きた。川崎クラブチッタでのプライマル・スクリームのライブで僕らはイベントのフライヤーを配っていたのだが、幸代ちゃんが顔色を変えて駆け寄ってきた。「フリッパーズ関係者の人がいたからフライヤー渡そうとしたら、彼ら解散するよって…」。

 

クラブはすでに押さえていたので、「FAKE HEAD’S NIGHT」は行われた。当時人気のあったネオアコマンチェスターものを僕らDJは回した。イベントは最終的には200人近く集まり、大盛況だった。幸代ちゃんはイベントの進行やゲストの対応に追われ、楽しむどころではなかったと思う。それでも好きな曲がかかると飛び出してきて、踊った。企画したものが、わずか数か月で追悼イベントになってしまったことにやけになっていたのかもしれない。最後の曲、フリッパーズの「Goodbye, Our Pastels Badges」が終わると、FAKEの二人は「フリッパーズ解散!」と叫んだ。公式にはまだフリッパーズの解散はアナウンスされていなかったので、会場はざわついた。

 

「FAKE HEAD’S NIGHT」終了後、幸代ちゃんから「FAKE第二号を作るんですが、元ネタ原稿を書いてもらえないでしょうか」と依頼があった。僕は「ヘッド博士の世界塔」を担当、執筆した。この第二号はいわば追悼号になるのだが、内容は決して湿っぽくなく、ユーモアあふれるものだった。幸代ちゃんは、僕の紹介文で「舟木一夫似のハンサムDJ」と書いた。

 

FAKE第二号が完成し見本誌が送られてきた後、幸代ちゃんとは疎遠になった。僕の音楽の興味がネオアコマンチェスターものからジャズ、ソウル、ブラジルに変わったり、社会人になって時間がなくなったこともあるが、幸代ちゃんと僕の接点はフリッパーズ・ギターであり、彼らが解散したのだから当然だったかもしれない。

 

久しぶりに会ったのは1993年6月の日比谷野外大音楽堂での小沢健二のフリーコンサート。幸代ちゃんと僕は会場に入れず、小雨ふりしきる中、木の下で雨宿りしながら、漏れる音を聴いていた。「寒いので体温めましょう」と幸代ちゃんが缶ビールを買ってきて二人でちびちび飲んでいたが、初めて聴く小沢健二の歌はフリッパーズ・ギターに比べるとロック寄りで「ヘイヘイヘイ」とか「ベイベー」とか今まで絶対言わないだろうと思った掛け声までしたので、少しお酒も入っていたせいか、幸代ちゃんは「何を目指しているかわからないー」と半ばキレ気味に笑っていた。


ライブ終了後、N嬢を含めた友人たちと合流したのだが、「歌詞の小沢、音楽の小山田だね…」とか「尾崎豊みたいだった…」と評価は散々だった。もちろん、シングル「天気読み」、アルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」がリリースされると、小沢健二の目指すものがわかるようになった。だが、それはフリッパーズ・ギターとの決別でもあり、僕にとっては幸代ちゃんとのつながりをますます疎遠にするものでもあった。

 

1995年に突然、幸代ちゃんから電話がかかってきた。FAKEの二人でフリッパーズ・ギターのプロデューサーだった牧村憲一氏にインタビューしたのだが、注釈を入れるうえでわからないことがあるので教えてほしいという内容だった。今だったらネットで調べればわかることだが、まだ通信手段は電話や手紙に頼っていた時代だ。普通ならここで昔話に花が咲くのだろうが、僕は音楽バカだったので気の利いたことは言えず、シュガーベイブはっぴいえんどのことを教えた。翌年1996年に「前略、小沢健二様」として出版され、幸代ちゃんは律儀に見本誌を送ってきてくれ、注釈欄に僕の名前を協力クレジットで入れてくれた。

 

今度は2000年に幸代ちゃんから突然連絡がきた。当時僕はmixiをやっていて幸代ちゃんとはマイミクにはなっていたが、彼女の日記はおろか、クイックジャパンもブログも読んでいなかった。正直にそのことを謝ったが、彼女は「いいんですよー、そんなこと」と言い、連絡をしたのは来年2001年がフリッパーズ・ギター10周忌になるからクイックジャパンで何か原稿を書いてほしいという依頼だと言った。当時僕は企業広報誌の編集者をしていたので、クイックジャパンは商業誌なんだから他にもっと適任の音楽ライターはいるはずと断ったのだが、「思い出ノリの企画なんであの頃一緒にやった人に頼みたいんです」と説得され、引き受けた。


思い出ノリの企画なんだからと、フリッパーズが影響を受けたであろうレコード/CD30選と、当時のクラブのプレイリスト、元ネタのリストにしたが、正直ほとんで聴かなくなったものが多かったので原稿が捗らず、mixiの日記を書いたりして現実逃避していた。当然、幸代ちゃんはマイミクだったのでばれ、「日記なんて書いてないで、原稿書いてください!」とお叱りのメッセージがきた。徹夜で原稿を書き、彼女に郵送した。原稿はクイックジャパン38号に掲載され、見本誌も送られてきた。同封してあった一筆便箋には「誤字が多くて校正が大変でしたが(汗)、おもしろかったです!」と書かれていた。

 

今度連絡があるとしたら、15周忌の2006年かなと思っていた。ところが、翌年2002年にクイックジャパン40号が突然送られてきた。「小沢健二を追って―」である。幸代ちゃんは何か送ってくるとき、必ず一文添えてくるのだが、この時は何もなかった。赤裸々な内容で、僕が好きだったユーモアある幸代ちゃんの文体ではなかった。わざわざ送ってきてくれたのだから、何か感想を言うべきなのだろうかと思ったが、言葉が見つからなかった。これが幸代ちゃんから僕宛の最後のメッセージとなった。

 

幸代ちゃんからもらった年賀状にこんな一文がある。

 

「音楽なんて、しみじみと、じわじわと、どきどきと、好き勝手に聴くものですよね? のんびりと。いそいでもいいけど。」

 

幸代ちゃんに会ってから25年、四半世紀たつ。来年2016年はフリッパーズの25周忌にあたるが、もう彼女から連絡が来ることはない。