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12月8日と8月15日の日記をまとめた老人、戦争博物館を訪ねた若者、「死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!」が好きな僕。利己的個人主義は誰?

戦後70年ということもあり、テレビでは連日戦争関連の特別番組が放映されている。また、まるでタイミングを合わせたかのように、安保関連法案をめぐる動きも活発化している。僕のツイッターのフォロワーさんは音楽つながりがほとんどなのだが、タイムラインに音楽、映画、美術、本、ファッション、○○食べたなどのツイッターに混じって、山本太郎議員の発言のリツイートがあるという、カオスな状態が続いている。

僕はジローズの「戦争を知らない子供たち」が発表された年に生まれた。ベトナム戦争が激化し日本でも反戦平和運動が盛り上がるなか、大阪万博で初めて歌われ、レコードは当時オリコンチャート11位を記録し、日本における代表的な反戦歌として知られているが、『地球攻撃命令 ゴジラガイガン』の挿入歌にも使われた迷曲でもある。

いつものように前置きが長くなったが、「戦争を知らない子供」なりに、戦争を知ろうと、夏が来ると思い出したかのように戦争関連の本を読む。今回は、戦争を知っている老人の本と、戦争を知らないどころか、教えてくれなかったとまで言う若者の本、2冊を紹介したい。

まず、半藤一利編著『十二月八日と八月十五日』。タイトルからわかる通り、12月8日は真珠湾攻撃があった開戦の日、8月15日は終戦を迎えた日である(終戦はポツダム宣言を受託した8月14日だとドヤ顔する人もいるが、一般国民が知ったのはあくまで8月15日)。半藤氏はこの両日に書かれた日記、手記、句歌などを通じて、当時日本人がどんな気持ちで開戦を迎え、終戦を受け入れたのかを伝えようとしている。引用されている文章の多くは作家、歌人、ジャーナリストなどのいわゆる文化人・知識人だが、政府または軍の関係者ではないので、いわゆる銃後の人々がどう感じたかは伝わってくる。また、史実をもとに午前6時から午後10時の時系列に沿って紹介する手法は、さすが昭和史の名探偵の異名をもつ半藤氏ならではある。

まず、12月8日については、文化人・知識人ですら開戦を熱狂的に受け入れたという事実が興味深かった。あの「君死にたまふことなかれ」で知られる与謝野晶子ですら、感慨に耽った句を詠んでいる。当時日本は日中戦争が泥沼化し、疲弊していた。開戦の知らせは、その鬱憤を晴らす明るいニュースだったのだ。

文筆家たちもまた、真の情報から遠くにあり、一般国民の一人にすぎなかった。不安感、緊張感、鬱陶しさからぬけでたようなすっきりした気持ち、さらには驕れる大国米英にあえて挑戦したという気の遠くなるような痛快感。それらが混ざりあった気持を味わいつつ、書き残していたに違いない。おもむろに日本人すべてが高揚した気分に導かれはじめていったのは事実である。


一方、8月15日については、一般的には「終戦記念日」として知られ、メディアでも取り上げられることが多いためか、こういった感じだったのだろうという感想をもった。天皇陛下玉音放送の内容がよくわからず、徹底抗戦と勘違いした人もいたようだが、天皇陛下の「一種異様な、抑揚のついた朗読」は確かに今聴いても奇妙なものではあるものの、国民の戦意を煽るような高揚感はなく、神妙な気持ちになる。内容がわからないというより、今風に言えば「何ソレ、イミフ」と呆然とし、その後「ナミダメ」という感じだったのだろう。

印象に残ったのは、半藤氏の父親の言葉。半藤氏の父親は軍国主義で、日本の男性は全員、カリフォルニアかハワイに送られて奴隷に、女性は全員アメリカ人の妾になると説いていたらしいが、半藤氏がそうなるのかと問うたところ、こう一喝したという。

バカもん、なにをアホなことを考えているのだ。日本人の男を全員カリフォルニアに運んでいくのに、いったいどれだけの船がいると思っているのかッ。日本中の女性を全員アメリカ人の妾にしたら、アメリカの女たちはどうするんだ、黙っていると思うか。馬鹿野郎。


この父親の一喝にはリアリティがある。これまでの自分の発言をひっくり返す一人ボケ&ツッコミだが、要は「くよくよしてないで、明日のこと考えろ」ということである。半藤氏自身、この父親の言葉で目が覚め、日本の明日のためにも勉強しようと思ったらしい。さらに言えばこの父親こそが、平均的な日本人だったのではないかと思う。戦争中は軍国主義になり、戦争が終わればその主義を簡単に捨て去る。こうしたある種のたくましさが日本をここまで復国させたのではないかと思う。

その復国した今の日本において、『誰も戦争を教えてくれなかった』という大胆なタイトルの本を書いたのが、古市憲寿氏だ。半藤氏の『十二月八日と八月十五日』は確かにその時代を生きた人々の文章が伝えるリアリティがあるが、半藤氏が「新かな、新字とし、ときに漢字をひらき句読点をほどこすなど、読みやすくした」というものの、当たり前だが文語体が多く、読みづらいさがあるのは否めない。何より70年前のことになるのだから、にわかには信じがたいことがあるのも事実である。

1985年生まれの古市氏自身はそうした現実を感じるところもあり、彼は戦争博物館・平和博物館を自分の足で訪ねることで、自分なりの戦争論を導こうとしている。ハワイのアリゾナ・メモリアルに始まり、中国の南京大虐殺紀念館、長春の偽満皇宮博物館、瀋陽の九・一八歴史博物館、旅順の二0三高地、上海のショウコ抗戦紀念館、シンガポールのシロソ要塞やチャンギ博物館、香港の海事博物館、ポーランドアウシュビッツ、ベルリンのユダヤ博物館、ローマの解放歴史博物館、韓国の独立紀念館や戦争記念館、そして広島、沖縄、京都、愛知、東京、なぜか関ヶ原関ヶ原ウォーランドがあるらしい)。

印象に残ったのが、国によって戦争の伝え方は異なり、それによって博物館の作り方も当然変わってくるのだが、日本は教科書で戦争をどう表現するかで揉めているくらいなので、博物館のつくりも中途半端なものになっていることだ。これでは、「誰も戦争を教えてくれなかった」と言っても仕方がないともいえる。ズ

巻末に戦争博物館ミシュランも掲載されているし(エンタメ性、目的性、真正性、規模、アクセスを手榴弾マークで採点)、旅行記として読んでもおもしろい。SNS世代なので、随所に容赦ないツッコミがあり、読んでて笑える部分もある。セカオワの歌詞の引用で締めるというのには、世代ギャップを感じてしまうが…。

あえて世代の異なる著者の二冊を紹介したが、強引に共通点を挙げるとすればリアリティだ。半藤氏は昭和5年(1930年)生まれ、昭和16年(1941年)から昭和20年(1945年)の戦争時は今で言えば小学5年生から中学3年生にあたるので、リアリティがあるのは当然である。古市氏は終戦から40年たった昭和60年(1985年)生まれ、平成元年の1989年はまだ幼稚園児なので、平成世代と言っていいが、自分の足で戦争博物館を見に行くリアリティがある。

戦争のリアリティを身近に感じる方法でいちばん良いのは体験者の話を聴くことだが、戦後70年を迎え、語り部の減少は深刻化している。僕は生まれた一年後に父が亡くなったため、母方の祖父母の家に住んでいたのが、戦時中は軍医だった祖父は僕が中学生の時に亡くなっているし、母を含む幼子3人を疎開先で育てた祖母は今は認知症でホームにいる。祖父母二人とも戦争のことはあまり語らなかったが、兄や僕が誕生日プレゼントに軍艦や戦闘機のプラモデルを欲しがると、「そんなもの欲しがるんじゃないよ」と僕らを叱った。兄は小遣いをため自分で買うようになり、今でもプラモデルづくりが趣味だが、僕はその代わりに音楽を聴くようになった。

なので、いつものように音楽オチにするが、戦争についていろいろ知ろうとするのだが、結局のところ、僕がいつもたどり着く結論は、

死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対! by  スネークマンショー

である。ん? そういう考え方をするのは利己的個人主義?それなら、

戦争に反対する唯一の方法は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。 by  吉田健一(英文学者。吉田茂・元首相の息子)。

でどうだ。もっと利己的個人主義か。

誰も戦争を教えてくれなかった

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死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対! (プラケース仕様)

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