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『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』を読んで、『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?の呪い』もあるか考えてみた。

1985年3月にリリースされた「ウィ・アー・ザ・ワールド」をご存知だろうか? アフリカの飢餓と貧困の救済のために当時人気のあったアメリカのアーティスト45名が集結したU.S.A.・フォー・アフリカによるチャリティーソングで、作詞・作曲はマイケル・ジャクソンライオネル・リッチーが共作し、プロデュースはクインシー・ジョーンズが担当(今で言えばファレル・ウィリアムスカニエ・ウェストが共作し、ジェイ・Zがプロデュースするようなもの)。豪華な顔ぶれもあってアメリカ国内だけで400万枚のセールスがあったという。シングルの他にアルバム、ビデオも製作され、6300万ドルの収益が寄付された。

このチャリティーソングに“呪い”があったという興味深い説を唱えたのが西寺郷太さんの『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』。この曲に参加したアーティスト逹の人気が急に落ち、アメリカン・ポップスの青春を終わらせたのではないのかというのだ。確かに、ライオネル・リッチースティービー・ワンダービリー・ジョエルダリル・ホール&ジョン・オーツ、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、シンディ・ローパーなどの人気アーティスト逹は「ウィ・アー・ザ・ワールド」参加以降、それまでと同様に活動しているにもかかわらずヒット・ソングに恵まれず、人気が衰えている。その一方で、皮肉にも参加しなかったマドンナは現在でも世界的な人気アーティストとして君臨している。

僕がこの本がとても興味深いと感じたのは、「ウィ・アー・ザ・ワールド」の考察だけでなく、映画音楽に始まるアメリカン・ポップスの歴史をコンパクトにまとめ、映像と音楽の融合がアメリカン・ポップスの発展に貢献したことをコンパクトに解説しているところだ。確かに1980年代、プロモーション・ビデオを放映する「ベストヒットUSA」や「ポッパーズMTV」は夢中になって見たし、アーティストの演奏シーンが多かったなか、マイケル・ジャクソンの「スリラー」は映画のようで衝撃的だった。「ウィ・アー・ザ・ワールド」のプロモーション・ビデオも次々と映し出される人気アーティストの姿に興奮したし、特にブルース・スプリングスティーンの暑苦しい泣きのシャウトは当時友達の間で物真似ネタになった。

と、ここまで書いて言うのもなんだが、僕は「ウィ・アー・ザ・ワールド」は好きではなかった。困っている人を助けましょう的なお涙頂戴の典型的なバラードで、シラケてしまったのだ。「We are the world, we are the children」という歌詞もシンプル過ぎるだけに、その意図がよくわからなかった。

僕は、この曲のきっかけとなったイギリスのバンドエイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」の方が好きだった。「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」は1984年12月にアフリカのエチオピア救済のためにブームタウンラッツのボブ・ゲルドフが呼び掛け人となり作詞を担当、ウルトラ・ヴォックスのミッジ・ユーロが作曲、プロデューサーは当時ZTTレーベルを主宰しフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド仕掛人として話題になっていたトレヴァー・ホーンが行っている。

いかにもクリスマスっぽいシンセサイザー・サウンドを基調とした明るいポップなアレンジで、「Feed the world,  let them know it's Christmas time again (世界に食糧を 彼らに再びクリスマスがやってくるのだと伝えるために)」というメッセージはわかりやすく、ポジティブだった。ちなみにこのレコードは当時日本版の製作は間に合わなかったためか、輸入盤のジャケットに日本語のタイトル・参加アーティストなどが書かれたシールが貼られ、いわゆる帯はなかった。歌詞カードはあり、解説は湯川れい子さんが書いている。

メイン・ヴォーカルを順番に書くと、ポール・ヤング→ボーイ・ジョージ(カルチャークラブ)→ジョージ・マイケルワム!)→サイモン・ル・ボンデュラン・デュラン)→トニー・ハドリー(スパンダー・バレエ)→スティング(ポリス)→ボノ(U2)→ポール・ウェラースタイル・カウンシル)→グレン・グレゴリー(ヘヴン17)。ドラムはフィル・コリンズである。カップリングは「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」のインストにアーティスト逹がメッセージを吹き込んだ「フィード・ザ・ワールド」で、ポール・マッカートニーデヴィッド・ボウイも参加している。

余談だが、トップバッターがポール・ヤングだったことは、当時の洋楽好き友達の間では疑問視する者が多かった。ポール・ヤングはダリル・ホール&ジョン・オーツのカバー曲「エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」がヒットし、洋楽好き少年のバイブルだった雑誌『ミュージック・ライフ』の東郷かおる子編集長一押しのアーティストだったが、日本ではデュラン・デュランカルチャー・クラブワム!の方が人気だった。

西寺郷太さんによると、ボーイ・ジョージはレコーディングの開始に間に合わず、滞在していたアメリカからコンコルドで駆け付けたそうだが、レコーディング開始時点ではサイモン・ル・ボンジョージ・マイケルもいたのだから、どうやって歌う順番を決めたのかは気になる。参加アーティストはボブ・ゲルドフの人脈で集めたのだから、彼が決めたのだろうが、西寺郷太さんいわく若いアーティストが中心だったため、レコーディングは険悪なムードだったという。プロモーション・ビデオでボノが歌うシーンでは、隣で歌うスティングが明らかに不快そうな表情を見せていたのが印象に残っている。さらに付け加えると1985年7月19日にイギリスとアメリカで同時開催され、日本でも衛星中継された「LIVE AID」でポール・ヤングは自分の出演時に「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」のイントロを歌っているが、フィナーレの参加アーティスト全員による合唱時には、デヴィッド・ボウイに自分が歌ったパートを譲っている。

で、問題の“呪い”。確かに「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」発表以降、“呪い”は発動している。ポール・ヤングは1986年に3rdアルバム『ビットウィーン・トゥー・ファイアーズ』を発表するが不発。カルチャー・クラブは1986年に4thアルバム『フロム・ラグジュアリー・トゥ・ハート・エーク』を発表、収録シングル「ウォー・ソング」が反戦がテーマで、カップリングがサビをドイツ語、フランス語、日本語で歌った国別ヴァージョンであることが発売前に話題になったが不発(日本語版はセンソウヘンタ~イに聴こえた)、さらにボーイ・ジョージがドラッグ所持で逮捕され、活動停止。デュラン・デュランは1985年に映画007の主題歌「美しき獲物たち」をヒットさせるが、ドラムのロジャー・テイラー、ギターのアンディ・テイラーが相次いで脱退し、人気は下降。フィル・コリンズは1990年まではヒット曲を連発していたがそれ以降人気を落とし、2011年3月に引退を表明している。ワム!は1986年に解散しジョージ・マイケルはソロになり1987年に『フェイス』が大ヒットするが、2nd『Listen Without Prejudice Vol.1』が不発し、1998年に公衆わいせつの罪で逮捕された。スパンダー・バレエとヘヴン17はイギリスでは人気グループだったが、何故か日本ではあまり売れなかった(僕は好きだったが)。

現在も活躍しているのはU2スティングポール・ウェラーぐらいである。付け加えれば、洋楽ファンのバイブルであった『ミュージック・ライフ』は1987年に『ロッキング・オン』に発行部数トップの座を譲り、1988年12月に休刊している。

呼び掛け人であり、U.S.A.フォー・アフリカのレコーディングにも立ち会い、コーラスにも参加したボブ・ゲルドフはどうか。1979年に「哀愁のマンデイ」が全英1位になったブームタウンラッツだったが、その後ヒットには恵まれず1986年に解散し、ボブ・ゲルドフは1986年、1990年、1992年にソロ・アルバムをリリースしているが、ヒットした記憶はない。むしろチャリティーにのめり込み、1989年にバンドエイドⅡ、2004年にバンドエイド20、2014年にバンドエイド30と参加メンバーを変えて「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」をリメイク、2005年7月には1985年の「LIVE AID」の再現として「LIVE 8」を開催している。なぜ「8」なのかというと、G8(先進8ヵ国首脳)に対しアフリカの問題の認識をもっと上げるように要求するためだった。それを象徴するかのように参加アーティストの一人のスティングは、ステージのスクリーンに写し出されたG8の首脳の写真をバックに「見つめていたい」を歌った(あんた逹の一挙一動を監視してるぜというメッセージである)。

このようにボブ・ゲルドフがチャリティーに取り憑かれた様こそ“呪い”だと言う人もいるかもしれないが、僕は“信念”と捉えたい。悪名もある彼だが、30年にも渡ってアフリカを支援する姿勢は誰でもできるものではない。仕事で開発途上国支援のNGOや国際機関の人々を取材したことがあるが、彼らは異口同音に活動の継続の大切さと難しさを話していた。

では、「ウィ・アー・ザ・ワールド」と「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」の“呪い”とは何なのか。この一言で片付けるのは安直かもしれないが、時代の流れとしか言い様がない。アメリカでは1985年以降、ホイットニー・ヒューストンジャネット・ジャクソンボビー・ブラウンなどの新しい世代の黒人アーティスト、ボン・ジョヴィガンズ・アンド・ローゼズなどのハードロック・バンドが人気になり、イギリスではカイリー・ミノーグ、リック・アストリーなどのユーロ・ビートが人気になった。アメリカ、イギリスともにいわゆる“ポップス”の人気は失速した。1990年代に入るとヒップホップやグランジオルタナティブ・ロック、さらにはテクノ/ハウスなど音楽ジャンルが細分化し、“ポップス”という大きな枠組みは崩壊していった。

一方、日本ではBOOWYブルーハーツレベッカなどのロックバンド、渡辺美里中村あゆみなどの女性シンガーソングライター、TM Networkバービーボーイズ米米クラブなどの新しいタイプのバンドといった、後のJポップ/ロックに発展していくブームが起き、洋楽の人気が下降し始めた。またレコードからCDへの変化も起きた。僕が通っていたレンタル・レコード屋も洋楽中心だったが、段々と邦楽が増え半々に、CDも徐々に増え、僕がバイトを始めた1989年には全てCDになっていた。

1980年代の洋楽は産業音楽とも言われ、音楽の発展には貢献しなかったという批判もある。しかし、西寺郷太さんが指摘しているように、“売れ線狙い”の“万人うけする”音楽だったからこそ、「老若男女、皆が知っている曲があった」と思う。過去記事で書いたが、僕の甥のように邦楽しか聴かない世代も増えている。もちろん今が旬の音楽を聴くこともいいが、どんな音楽も昔があるからこそ今がある。AppleMusicなどの定額ストリーミングの時代が到来し、自由に音楽にアクセスできるようになった今こそ、西寺郷太さんの『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』のような本を通して音楽の歴史を知ることはますます大切になっていると思う。新しい音楽との出会いは今だけでなく、過去にもあるのだから。

でも、「ウィ・アー・ザ・ワールド」や「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」は買って聴こうね。そうしないと、アフリカに寄付金がいかないから。