孤独のグルメ体験~東京都世田谷区駒沢公園の煮込み定食

ドラマ・孤独のグルメがSeason5に突入した。中年男がありふれた食事を一人で食べるだけで、ストーリーはほとんどないのに、この人気ぶりはすごい。我が家でも夫婦そろって見ているが、深夜に松重豊演じる井之頭五郎の食べっぷりを見ているとお腹が減るという飯テロに襲撃されるので、録画したものを夕食時に見るようにしている。

ドラマSeason5の開始のタイミングで、原作の漫画の第2巻も発売された。第1巻からなんと18年ぶりである。弱冠、井之頭五郎の表情が親しみやすくなった気がするが、内容は相変わらず。谷口ジローの緻密な作画で淡々と描かれつつ、久住昌之の親父ダジャレが炸裂するミスマッチ感が何ともいえない。僕のお気に入りは「こんな名店があるとは思いもヨルダン大使館」。

この第2巻に行ったことのある店が出てきた。東京都世田谷区駒沢公園の煮込み定食の店だ。描かれているとおり、店の看板以外、何も説明がないので何のお店かわからない。すだれの暖簾をくぐって中に入るとカウンター席のみ。座るとすぐに「どうぞ」と煮込みを出される。次に「ご飯の量は?」と訊かれる。メニューが煮込み以外、御飯、茶漬け、漬け物しかないから、入ると自動的に出てくるのだ。酒類は一切ない。それなのに営業時間は夕方5時から夜12時半まで。謎な店なのだ。

しかし、煮込みしか出してないだけあって旨い。ご飯に合う。ご飯にかければ煮込み丼になる。白米ラバーズの自分にはたまらない。思わず五郎さんのように「俺好みの味だ」と呟きたくなる。僕は五郎さんのようにお酒は飲まないし、一人飯の時はさっと食べて、さっとお会計をすまして出る方なので、「俺好みの店だ」なのである。

テレビの人気で番組に出てきた店を紹介するガイド本『孤独のグルメ巡礼ガイド』も出てるようだが、個人的にはこれは違うんじゃないか感がある。孤独のグルメの良さはたまたま入った店が結構旨かったというのがいいのであって、ガイド本を片手にわざわざ訪れるというのではないと思う。ましてや友達、カップルで行くものでもない。一人で食べ、一人で味わい、自分の胃と対話する。だから食べ物の旨さだけに集中できる。それが一人飯の醍醐味ではないだろうか。

さて、今日の飯は何にするか。

孤独のグルメ2

孤独のグルメ2





『プリンス論』を読んで音楽の作り手・受け手が思い出すべきこと

プリンスのアルバムのジャケットを見て、「イケてる」と思う人はまずいないだろう。2ndアルバム『Prince』では胸毛を露出し、こちらを見つめる。3rdアルバム『Dirty Mind』は黒ビキニ一丁にトレンチコートでほとんど変質者。10thアルバム『Lovesexy』に至っては「安心してください。履いてません」ポーズをとる。

そんな見た目は気持ち悪いプリンスだが、音楽は高い評価を得ている。1984年に発表されたシングル「When Doves Cry」はその年のビルボード・チャートの年間ナンバーワン・シングルとなり、マイケル・ジャクソンより早く黒人では3人目の快挙を成し遂げている。1987年発表のアルバム『Sign O'  The Times 』はアメリカのローリングストーン誌の1980年代ベストアルバム100で4位、イギリスのロンドンの情報誌タイムアウトの「史上最高の100枚」では1位に輝いている。日本では岡村靖幸氏がプリンス・ファンとして知られ、『ジョジョの奇妙な冒険』の作者・荒木飛呂彦氏は第5部の主人公ジョルノのスタンド名を、プリンスの曲「ゴールド・エクスペリエンス」と名付けている。

こうしたプリンスの凄さを紹介するのが西寺郷太さんの『プリンス論』。翻訳書はあるが、日本人では初めてのプリンスについて書かれた書籍である。なぜこれほど著名なアーティストなのに今まで書籍がなかったのか。それはまずプリンスが受けたインタビューは少く、自分の情報をコントロールしていることが一番の原因である。さらに困難なのがプリンスが多作家であること。1978年のデビュー以来、ほぼ1年に1枚のペースでアルバムを作成し、2枚組、3枚組、5枚組のものまである。シングルのカップリング曲も未発表曲で、しかもシングルにしても遜色のないクオリティだ(ちなみに今年サマーソニックで初来日したディアンジェロもプリンスを崇拝しているが、プリンスのトリビュート盤では、シングル「Raspberry Beret」のカップリング曲「She's Always In My Hair」を選んでいる)。制作途中でやめたアルバムもあるため、不正に発売されたブートレグ海賊盤)も数多くある。要するにファンでいるだけでも大変なのである。

西寺郷太さんの『プリンス論』を読んで驚いたのは、デビューから現在までプリンスのアルバムを紹介する章立てなのに、新書に収まる文章量でまとめていることだ。さらに音楽家ならではの分析もきちんと盛り込まれている。例えば、「When Doves Cry」とともに全米1位になった「Let Go Crazy」を例に、それまで黒人の代表的な音楽であったディスコミュージックより意図的にテンポを上げることで新たな白人のロック・ファンを獲得したと分析している。さらに、日本の一般的なリスナーに受けるのはアップテンポの早い音楽かバラードの遅い音楽でミディアムテンポのものは受けないとし、ファレル・ウィリアムスの「Happy」はヒットしたが、全米で大ヒットしたマーク・ロンソン&ブルーノ・マーズの「アップタウン・ファンク」が日本ではあまりヒットしなかったことも指摘している。この「アップタウン・ファンク」は初期のプリンスが得意とし、彼の出身地にちなんで名付けられた「ミネアポリス・ファンク」をベースにしている。デ

そして、何より読んでておもしろいのが随所に盛り込まれている西寺郷太さんのユニークな突っ込み。これがあることで、マニアックな蘊蓄本に終わってないところが素晴らしいと思う。まだ小学生でプリンスのアルバムを欲しがる西寺郷太さんに対し、お母様が「郷太、小学生には小学生の聴く音楽があります」と禁止したエピソードを読んで、自分も当時プリンスのプロモーションビデオを見て母が顔をしかめていたので、夜中に録画したものをこっそり見るようにし、余計悶々としたのを思い出した。

高校時代の同級生のY君が海賊盤も収集するマニアだったため(私服可の遠足の時に紫色のスーツを着てきた筋金入り)、「Paradeツアー」「Lovesexyツアー」「NUDEツアー」の東京公演全日のライブを見ることもできた。プリンスは感極まるとビキニ一丁にハイヒールになるが、幸いなことにステージから遠い席で、スクリーンもまだ画質が悪かったため、純粋に音を楽しめた。好きな曲を一曲選ぶのは難しい。プリンスはアルバムで聴くものだと思っている。強いて挙げれば『Parade』だ。

プリンスは2015年のグラミー賞でアルバム賞のプレゼンテーターとして登場し、こうスピーチした。

「『アルバム』って…覚えている?」
「アルバムは、今も、重要だ」
「本や、黒人の命と同じように。アルバムは、今も重要だ。今夜も、これからも…。年間最優秀アルバムです」
※黒人についての言及は「ファーガソン事件」「エリック・ガーナー事件」(警官による黒人暴行)に対して。年間最優秀アルバムはベックの『モーニング・フェイズ』。

iPodをはじめとしたデジタル携帯プレイヤーの登場以降、音楽のダウンロード販売が普及し、さらにAppleMusic、AWA、LINE MUSICなどの定額ストリーミング・サービスの開始で、音楽はシングル中心の聴き方になっている。西寺郷太さんも指摘しているが、スマートフォンで音楽を聴くことが主流になりつつある現在ではアルバムを最初から最後まで聴く間に、メールやSNSのメッセージがどんどん届く。以前、あるアーティストが「これからのアルバムは20分くらいが最適かもしれない。それぐらい現代人には音楽に集中する時間がない」と発言していたのを読んだ。僕は未だにCDを買い、iPodを使う時代遅れの男で、アルバムも最初から最後まで聴く。それでも全曲いいと思うアルバムが減っている気がする。作り手もシングル・ヒットに気をとられ過ぎなのではないか。

アルバム『Lovesexy』のCDはアルバム全曲が一曲のデータで、飛ばすことができないようになっていた。自分の意図があってこの曲順にしたのだから、最初から最後まで聴いてほしいという意志の強さだ。こうした強気の姿勢こそ、今の作り手がプリンスに見習うべきことではないかと、西寺郷太さんは指摘している。そして、私たちリスナーも「教育してもらう」喜びを素直に享受すべきではないだろうか。「○○って○○だよね」と簡単につぶやき、それがあたかも世間の評価であるかのように広がるSNS時代だからこそ。

何より、プリンス自身、こう歌っている。

“If U set your mind free, baby. Maybe U understand. ”(「Starfish and Coffee」)

でも、良い子の皆さんは、ビキニにハイヒールは真似しないようにしましょう。単なる変態扱いされます。

プリンス論 (新潮新書)

プリンス論 (新潮新書)

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PIZZICATO ONE 9/22 BILLBOARD TOKYO


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【セットリスト】
1.フラワー・ドラム・ソング/甲田益也子
2.私が死んでも/おおたえみり
3.恋のテレビジョン・エイジ/西寺郷太&enaha 
4.12月24日/ミズノマリ
5.東京の街に雪が降る日、二人の恋は終わった。/ミズノマリ
6.日曜日/西寺郷太
7.きみになりたい/吉川智子
8.昨日のつづき/吉川智子
小西康陽、ステージに登場~
9.かなしいうわさ/吉川智子&小西康陽
10.ゴンドラの歌/小西康陽
11.マジック・カーペット・ライド/西寺郷太&enaha 
12.美しい星/甲田益也子
~アンコール~
1.また恋におちてしまった/小西康陽
2.子供たちの子供たちの子供たちへ/小西康陽

【感想】
・今回のライブで歌われたアルバム『わたくしの二十世紀』は、もともとビルボード東京の制作担当者が新しい編曲でいろいろなヴォーカリストが歌うライブをやらないかと提案したのがきっかけだという。それが今回ライブとして実現したのが、興味深い。
・バックバントの編成はピアノ、コントラバス、ドラム、チェロ、ハープ。アルバム同様、控え目の演奏だったので、ヴォーカリストの声が際立ち、小西さんの歌詞の世界を堪能できた。
・どのヴォーカリストも素晴らしかったが、個人的に功労賞は黒一点の西寺郷太さん。流暢なMCでバンマスの小西さん以上に喋り、「西寺郷太のライブにようこそ!」「エディ・マーフィーこと西寺郷太です」などのギャグで会場を爆笑させた。
・本編ラストの「美しい星」で会場バックの黒カーテンが開き、歌詞のように窓にビルの夜景が光る演出は素晴らしかった。セカンドステージだけの演出だったらしいので、得した気分になった。
・小西さんがデュエットを含め4曲も歌い、驚いた(ご本人いわくアンコール2曲は隠し芸)。楽器を弾かず、歌ったのは初めてではないだろうか。とりわけラストのピアノ弾き語りのピチカート・ファイヴの「子供たちの子供たちの子供たちへ」は大好きな曲なので、涙腺崩壊しそうだった。
ビルボード東京は座って落ち着いて観られるし、音も良いのだか、自分には小洒落過ぎで正直苦手である。

明日に向かって捨てろ‼

Twitterでこんなニュースを見かけた。


「ライバルは4次元ポケット」という見出しに、ドラえもん世代なので興味を引かれたが、単なる倉庫サービスで、スマートフォンで荷物を預けるための段ボール手配、持ち物の管理、預けているモノの管理ができ、預けたモノは倉庫で撮影される写真でいつでも閲覧が可能なことがウリのようだ。

結婚を機に、独り暮らしをしていた頃に山積みとなったレコード&CD、本&漫画を倉庫に預けようと考えたこともあったが、結局母に頼み、実家に置かせてもらっている。実家は今住んでいる家から近いので、あのCDが聴きたくなった、あの漫画を読みたくなったと、ちょくちょく取りにいく。新しく買ったCD、本&漫画も順調に増えている。当然、わずか数年で我が家には棚に入りきらず、モノの山が出来始めた。ちなみにこれまで当ブログではツッコミ役として登場してきた妻だが、実はかなり重度の本好きで、本の山をもっぱら築いているのは彼女である。

何とかせねばと考えていた折に、スチャダラパーBOSEの『明日に向かって捨てろ‼』を見つけ、買って読んだのだが、これが捨てるという点ではまったく参考にならなかった。いや、面白すぎてまた本が一冊増えただけと言った方がいいだろう。捨てるべきか捨てないべきかと悩むモノが、コンプリートしてないガチャガチャのフィギュア、録画とソフトのダブりビデオテープ、家電品のトリセツ、必要な度に買い増えた工具、CDのオマケやフライヤーがわりにもらうステッカー、果ては出前チラシなど、そんなモノ捨てろよ!とツッコミたくなるモノばかりを取り上げ、笑い話にする。つまり、なかなか捨てられないよねと愚痴るのではなく、解決不能問題を遊ぼうという開き直りの本なのだ。

あらゆるモノのデータ化が進み、“所有”から“アクセス”へと変化しつつあるが、モノにはそれにまつわる記憶があり、その所有者を表す役割もある。仮にあらゆるモノをデータ化し、さらにわずかに残したモノまで冒頭の倉庫サービスに預け、服もレンタル・サービスを利用している人の家に訪れたとする。不動産屋のカタログに掲載されているようなオシャレなきれいな部屋かもしれない。しかし、そこに住む人がどんな生活をし、日々何を考えているのかは伝わってこないのではないか。もし、この本の主人公であるBOSEの部屋がそうだったら、それはないだろと思うだろう(そもそも本の企画が成り立たない)。中途半端なフィギュアやビデオテープ、レコード、本などに囲まれ生活しているからこそ、スチャダラパーのあのオモロHip-hopが生まれるのだと思う。

と、いい結論でまとめた気になっているが、最近テレビに出てくるようなゴミ屋敷にはならないよう気をつけたいとは思いつつ、妻の本の山に躓き、足の小指の痛みを紛らわせようと、この記事を書いているのだった。妻よ、特にファッション雑誌は凶器になるから片付けてくれ…。

明日に向かって捨てろ!!

明日に向かって捨てろ!!






風街レジェンド2015 8/22 東京国際フォーラム


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【セットリスト】
・夏なんです/はっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆
・花いちもんめ/はっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆
・はいからはくち/はっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆)+佐野元春
・てぃーんず ぶるーす/原田真二
・タイム・トラベル/原田真二
・シンプル・ラブ/大橋純子
・ペイパー・ムーン/大橋純子
・三枚の写真/石川ひとみ
・東京ららばい/中川翔子
・セクシャルバイオレットNo. 1/美勇士
・ハイスクール ララバイ/イモ欽トリオ
・赤道小町 ドキッ/山下久美子
・誘惑光線・クラッ!/早見優
風の谷のナウシカ/安田成美
菩提樹/鈴木准、河野紘子
・辻音楽師/鈴木准、河野紘子
・A面で恋をして/伊藤銀次杉真理佐野元春
・バチェラー・ガール/稲垣潤一
・恋するカレン/稲垣潤一
・スローなブギにしてくれ(I Want You)南佳孝
・ソバカスのある少女/南佳孝鈴木茂
・しらけしまうぜ/小坂忠
・流星都市/小坂忠
・Woman “Wの悲劇”より/吉田美奈子
カナリア諸島にて/バンド紹介
・綺麗ア・ラ・モード/中川翔子
・卒業/斉藤由貴
・SEPTEMBER/EPO
・さらばシベリア鉄道/太田裕美
・メッセージビデオ/鈴木雅之
・メッセージビデオ/矢野顕子
・やさしさ紙芝居/水谷豊
ルビーの指環/寺尾聡
【アンコール】
・風を集めて/はっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆)+出演者
・花束贈呈/松任谷由実


【感想というか覚え書き】
※夢のような約4時間だったから、どうしてもまとめようがないというか、とりとめのないものになってしまうので箇条書き。
・会場が暗転し、はっぴいえんどの風街ろまんのジャケットが映し出され、夏なんですが始まった時は涙腺が崩壊しそうになった。
・初めて生で聴く松本隆のドラムは想像以上に力強かった。
はっぴいえんどのメンバー3人で相談し決めたと紹介され、佐野元春が登場し、はいからはくちを歌ったが、大瀧詠一の不在を嫌がおうにも感じ、改めて稀有なヴォーカリストだったことを痛感した。「間奏!」を言ったのは嬉しかったけど。
太田裕美木綿のハンカチーフは初めて生で聴き、溢れ出しそうな涙をハンカチーフで抑えた。
・風街バンドという豪華なバックバンドがありながら、イモ欽トリオハイスクールララバイはカラオケだったが、あのチープなテクノ・サウンドは生バンドでは再現が難しいので、却ってイモ欽トリオのコミカルさが際立って良かった。
・出演者のほとんどかそうだったが、とりわけノンMCで登場し、赤道小町ドキッを披露し、歌い終わるとさっとステージを去る山下久美子のスマートさがイカしてた。
・白のミニワンピースで誘惑光線・クラッ!を歌う早見優にプロ意識を感じた。
・観客の大半が楽しみにしていたであろう安田成美の風の谷のナウシカは、リリース当時と変わらぬ初々しさがあった。
伊藤銀次杉真理君は天然色佐野元春を加えたA面で恋をして、稲垣潤一の恋するカレンは、再び大瀧詠一の不在を思い知らされる結果となった。
南佳孝小坂忠の男の色気と現役感のある力強い歌声は良かった。
吉田美奈子のWoman“Wの悲劇”より、ガラスの林檎の原曲を無視したアバンギャルドなアレンジは圧巻だった。
斉藤由貴の卒業の春、EPOのSEPTEMBERの秋、太田裕美のさらばシベリア鉄道の冬、という季節のうつろいを表す演出は見事だった。
水谷豊、寺尾聡の男の色気と歌唱力にやられた。
・アンコールのはっぴいえんどの2曲は予想はできたが、やはり嬉しかった。
・最後に細野晴臣の「すごいゲストが来ている」の紹介で松任谷由実が登場し、松本隆に花を渡し、「戦友」と言ったのは印象的だった。

【余談】
・休憩がなかったとは言え、席を立ち体を屈めずトイレに行き、曲の途中でも席に戻る観客の多さに呆れた。若者の音楽フェスのマナーの悪さがよく指摘されるが、大人のほうがよっぽどマナーに緩く、悪い。
・無理だとわかってはいるが、松本隆の作詞の恩恵を最も受けた松田聖子近藤真彦薬師丸ひろ子中山美穂が出演しなかったのは残念だった。


『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』を読んで、『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?の呪い』もあるか考えてみた。

1985年3月にリリースされた「ウィ・アー・ザ・ワールド」をご存知だろうか? アフリカの飢餓と貧困の救済のために当時人気のあったアメリカのアーティスト45名が集結したU.S.A.・フォー・アフリカによるチャリティーソングで、作詞・作曲はマイケル・ジャクソンライオネル・リッチーが共作し、プロデュースはクインシー・ジョーンズが担当(今で言えばファレル・ウィリアムスカニエ・ウェストが共作し、ジェイ・Zがプロデュースするようなもの)。豪華な顔ぶれもあってアメリカ国内だけで400万枚のセールスがあったという。シングルの他にアルバム、ビデオも製作され、6300万ドルの収益が寄付された。

 
このチャリティーソングに“呪い”があったという興味深い説を唱えたのが西寺郷太さんの『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』。この曲に参加したアーティスト逹の人気が急に落ち、アメリカン・ポップスの青春を終わらせたのではないのかというのだ。確かに、ライオネル・リッチースティービー・ワンダービリー・ジョエルダリル・ホール&ジョン・オーツ、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、シンディ・ローパーなどの人気アーティスト逹は「ウィ・アー・ザ・ワールド」参加以降、それまでと同様に活動しているにもかかわらずヒット・ソングに恵まれず、人気が衰えている。その一方で、皮肉にも参加しなかったマドンナは現在でも世界的な人気アーティストとして君臨している。
 
僕がこの本がとても興味深いと感じたのは、「ウィ・アー・ザ・ワールド」の考察だけでなく、映画音楽に始まるアメリカン・ポップスの歴史をコンパクトにまとめ、映像と音楽の融合がアメリカン・ポップスの発展に貢献したことをコンパクトに解説しているところだ。確かに1980年代、プロモーション・ビデオを放映する「ベストヒットUSA」や「ポッパーズMTV」は夢中になって見たし、アーティストの演奏シーンが多かったなか、マイケル・ジャクソンの「スリラー」は映画のようで衝撃的だった。「ウィ・アー・ザ・ワールド」のプロモーション・ビデオも次々と映し出される人気アーティストの姿に興奮したし、特にブルース・スプリングスティーンの暑苦しい泣きのシャウトは当時友達の間で物真似ネタになった。
 
と、ここまで書いて言うのもなんだが、僕は「ウィ・アー・ザ・ワールド」は好きではなかった。困っている人を助けましょう的なお涙頂戴の典型的なバラードで、シラケてしまったのだ。「We are the world, we are the children」という歌詞もシンプル過ぎるだけに、その意図がよくわからなかった。
 
僕は、この曲のきっかけとなったイギリスのバンドエイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」の方が好きだった。ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」は1984年12月にアフリカのエチオピア救済のためにブームタウンラッツのボブ・ゲルドフが呼び掛け人となり作詞を担当、ウルトラ・ヴォックスのミッジ・ユーロが作曲、プロデューサーは当時ZTTレーベルを主宰しフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド仕掛人として話題になっていたトレヴァー・ホーンが行っている。
 
いかにもクリスマスっぽいシンセサイザーサウンドを基調とした明るいポップなアレンジで、「Feed the world,  let them know it's Christmas time again (世界に食糧を 彼らに再びクリスマスがやってくるのだと伝えるために)」というメッセージはわかりやすく、ポジティブだった。ちなみにこのレコードは当時日本版の製作は間に合わなかったためか、輸入盤のジャケットに日本語のタイトル・参加アーティストなどが書かれたシールが貼られ、いわゆる帯はなかった。歌詞カードはあり、解説は湯川れい子さんが書いている。
 
メイン・ヴォーカルを順番に書くと、ポール・ヤング→ボーイ・ジョージ(カルチャークラブ)→ジョージ・マイケルワム!)→サイモン・ル・ボンデュラン・デュラン)→トニー・ハドリー(スパンダー・バレエ)→スティング(ポリス)→ボノ(U2)→ポール・ウェラースタイル・カウンシル)→グレン・グレゴリー(ヘヴン17)。ドラムはフィル・コリンズである。カップリングは「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」のインストにアーティスト逹がメッセージを吹き込んだ「フィード・ザ・ワールド」で、ポール・マッカートニーデヴィッド・ボウイも参加している。
 
余談だが、トップバッターがポール・ヤングだったことは、当時の洋楽好き友達の間では疑問視する者が多かった。ポール・ヤングはダリル・ホール&ジョン・オーツのカバー曲「エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」がヒットし、洋楽好き少年のバイブルだった雑誌『ミュージック・ライフ』の東郷かおる子編集長一押しのアーティストだったが、日本ではデュラン・デュランカルチャー・クラブワム!の方が人気だった。
 
西寺郷太さんによると、ボーイ・ジョージはレコーディングの開始に間に合わず、滞在していたアメリカからコンコルドで駆け付けたそうだが、レコーディング開始時点ではサイモン・ル・ボンジョージ・マイケルもいたのだから、どうやって歌う順番を決めたのかは気になる。参加アーティストはボブ・ゲルドフの人脈で集めたのだから、彼が決めたのだろうが、西寺郷太さんいわく若いアーティストが中心だったため、レコーディングは険悪なムードだったという。プロモーション・ビデオでボノが歌うシーンでは、隣で歌うスティングが明らかに不快そうな表情を見せていたのが印象に残っている。さらに付け加えると1985年7月19日にイギリスとアメリカで同時開催され、日本でも衛星中継された「LIVE AID」でポール・ヤングは自分の出演時に「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」のイントロを歌っているが、フィナーレの参加アーティスト全員による合唱時には、デヴィッド・ボウイに自分が歌ったパートを譲っている。
 
で、問題の“呪い”。確かに「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」発表以降、“呪い”は発動している。ポール・ヤングは1986年に3rdアルバム『ビットウィーン・トゥー・ファイアーズ』を発表するが不発。カルチャー・クラブ1984年に発表した3rdアルバム『ハウス・オン・ファイヤー』収録のシングル「ウォー・ソング」で反戦をテーマにし、カップリングがサビをドイツ語、フランス語、日本語で歌った国別ヴァージョンであることが発売前に話題になったが不発(日本語版はセンソウヘンタ~イに聴こえた)、さらにボーイ・ジョージがドラッグ所持で逮捕され、活動停止。デュラン・デュランは1985年に映画007の主題歌「美しき獲物たち」をヒットさせるが、ドラムのロジャー・テイラー、ギターのアンディ・テイラーが相次いで脱退し、人気は下降。フィル・コリンズは1990年まではヒット曲を連発していたがそれ以降人気を落とし、2011年3月に引退を表明している。ワム!は1986年に解散しジョージ・マイケルはソロになり1987年に『フェイス』が大ヒットするが、2nd『Listen Without Prejudice Vol.1』が不発し、1998年に公衆わいせつの罪で逮捕された。スパンダー・バレエとヘヴン17はイギリスでは人気グループだったが、何故か日本ではあまり売れなかった(僕は好きだったが)。
 
現在も活躍しているのはU2、スティング、ポール・ウェラーぐらいである。付け加えれば、洋楽ファンのバイブルであった『ミュージック・ライフ』は1987年に『ロッキング・オン』に発行部数トップの座を譲り、1988年12月に休刊している。
 
呼び掛け人であり、U.S.A.フォー・アフリカのレコーディングにも立ち会い、コーラスにも参加したボブ・ゲルドフはどうか。1979年に「哀愁のマンデイ」が全英1位になったブームタウンラッツだったが、その後ヒットには恵まれず1986年に解散し、ボブ・ゲルドフは1986年、1990年、1992年にソロ・アルバムをリリースしているが、ヒットした記憶はない。むしろチャリティーにのめり込み、1989年にバンドエイドⅡ、2004年にバンドエイド20、2014年にバンドエイド30と参加メンバーを変えて「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」をリメイク、2005年7月には1985年の「LIVE AID」の再現として「LIVE 8」を開催している。なぜ「8」なのかというと、G8(先進8ヵ国首脳)に対しアフリカ支援を訴え、貧困にあえぐ人々に対する債務の帳消、支援金額の倍増、公正な貿易ルールの実現を要求するためだった。それを象徴するかのように参加アーティストの一人のスティングは、ステージのスクリーンに写し出されたG8の首脳の写真をバックに「見つめていたい」を歌った(あんた逹の一挙一動を監視してるぜというメッセージである)。
 
このようにボブ・ゲルドフがチャリティーに取り憑かれた様こそ“呪い”だと言う人もいるかもしれないが、僕は“信念”と捉えたい。悪名もある彼だが、30年にも渡ってアフリカを支援する姿勢は誰でもできるものではない。仕事で開発途上国支援のNGOや国際機関の人々を取材したことがあるが、彼らは異口同音に活動の継続の大切さと難しさを話していた。
 
では、「ウィ・アー・ザ・ワールド」と「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」の“呪い”とは何なのか。この一言で片付けるのは安直かもしれないが、時代の流れとしか言い様がない。アメリカでは1985年以降、ホイットニー・ヒューストンジャネット・ジャクソンボビー・ブラウンなどの新しい世代の黒人アーティスト、ボン・ジョヴィガンズ・アンド・ローゼズなどのハードロック・バンドが人気になり、イギリスではカイリー・ミノーグ、リック・アストリーなどのユーロ・ビートが人気になった。アメリカ、イギリスともにいわゆる“ポップス”の人気は失速した。1990年代に入るとヒップホップやグランジオルタナティブ・ロック、さらにはテクノ/ハウスなど音楽ジャンルが細分化し、“ポップス”という大きな枠組みは崩壊していった。
 
一方、日本ではBOOWYブルーハーツレベッカなどのロックバンド、渡辺美里中村あゆみなどの女性シンガーソングライター、TM Networkバービーボーイズ米米クラブなどの新しいタイプのバンドといった、後のJポップ/ロックに発展していくブームが起き、洋楽の人気が下降し始めた。またレコードからCDへの変化も起きた。僕が通っていたレンタル・レコード屋も洋楽中心だったが、段々と邦楽が増え半々に、CDも徐々に増え、僕がバイトを始めた1989年には全てCDになっていた。
 
1980年代の洋楽は産業音楽とも言われ、音楽の発展には貢献しなかったという批判もある。しかし、西寺郷太さんが指摘しているように、“売れ線狙い”の“万人うけする”音楽だったからこそ、「老若男女、皆が知っている曲があった」と思う。過去記事で書いたが、僕の甥のように邦楽しか聴かない世代も増えている。もちろん今が旬の音楽を聴くこともいいが、どんな音楽も昔があるからこそ今がある。AppleMusicなどの定額ストリーミングの時代が到来し、自由に音楽にアクセスできるようになった今こそ、西寺郷太さんの『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』のような本を通して音楽の歴史を知ることはますます大切になっていると思う。新しい音楽との出会いは今だけでなく、過去にもあるのだから。
 
でも、「ウィ・アー・ザ・ワールド」や「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」は買って聴こうね。そうしないと、アフリカに寄付金がいかないから。
 

 

 

 

ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い (NHK出版新書 467)

ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い (NHK出版新書 467)

 

 

 

 

 
 
 
 
 

12月8日と8月15日の日記をまとめた老人、戦争博物館を訪ねた若者、「死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!」が好きな僕。利己的個人主義は誰?

戦後70年ということもあり、テレビでは連日戦争関連の特別番組が放映されている。また、まるでタイミングを合わせたかのように、安保関連法案をめぐる動きも活発化している。僕のツイッターのフォロワーさんは音楽つながりがほとんどなのだが、タイムラインに音楽、映画、美術、本、ファッション、○○食べたなどのツイッターに混じって、山本太郎議員の発言のリツイートがあるという、カオスな状態が続いている。

僕はジローズの「戦争を知らない子供たち」が発表された年に生まれた。ベトナム戦争が激化し日本でも反戦平和運動が盛り上がるなか、大阪万博で初めて歌われ、レコードは当時オリコンチャート11位を記録し、日本における代表的な反戦歌として知られているが、『地球攻撃命令 ゴジラガイガン』の挿入歌にも使われた迷曲でもある。

いつものように前置きが長くなったが、「戦争を知らない子供」なりに、戦争を知ろうと、夏が来ると思い出したかのように戦争関連の本を読む。今回は、戦争を知っている老人の本と、戦争を知らないどころか、教えてくれなかったとまで言う若者の本、2冊を紹介したい。

まず、半藤一利編著『十二月八日と八月十五日』。タイトルからわかる通り、12月8日は真珠湾攻撃があった開戦の日、8月15日は終戦を迎えた日である(終戦はポツダム宣言を受託した8月14日だとドヤ顔する人もいるが、一般国民が知ったのはあくまで8月15日)。半藤氏はこの両日に書かれた日記、手記、句歌などを通じて、当時日本人がどんな気持ちで開戦を迎え、終戦を受け入れたのかを伝えようとしている。引用されている文章の多くは作家、歌人、ジャーナリストなどのいわゆる文化人・知識人だが、政府または軍の関係者ではないので、いわゆる銃後の人々がどう感じたかは伝わってくる。また、史実をもとに午前6時から午後10時の時系列に沿って紹介する手法は、さすが昭和史の名探偵の異名をもつ半藤氏ならではある。

まず、12月8日については、文化人・知識人ですら開戦を熱狂的に受け入れたという事実が興味深かった。あの「君死にたまふことなかれ」で知られる与謝野晶子ですら、感慨に耽った句を詠んでいる。当時日本は日中戦争が泥沼化し、疲弊していた。開戦の知らせは、その鬱憤を晴らす明るいニュースだったのだ。

文筆家たちもまた、真の情報から遠くにあり、一般国民の一人にすぎなかった。不安感、緊張感、鬱陶しさからぬけでたようなすっきりした気持ち、さらには驕れる大国米英にあえて挑戦したという気の遠くなるような痛快感。それらが混ざりあった気持を味わいつつ、書き残していたに違いない。おもむろに日本人すべてが高揚した気分に導かれはじめていったのは事実である。


一方、8月15日については、一般的には「終戦記念日」として知られ、メディアでも取り上げられることが多いためか、こういった感じだったのだろうという感想をもった。天皇陛下玉音放送の内容がよくわからず、徹底抗戦と勘違いした人もいたようだが、天皇陛下の「一種異様な、抑揚のついた朗読」は確かに今聴いても奇妙なものではあるものの、国民の戦意を煽るような高揚感はなく、神妙な気持ちになる。内容がわからないというより、今風に言えば「何ソレ、イミフ」と呆然とし、その後「ナミダメ」という感じだったのだろう。

印象に残ったのは、半藤氏の父親の言葉。半藤氏の父親は軍国主義で、日本の男性は全員、カリフォルニアかハワイに送られて奴隷に、女性は全員アメリカ人の妾になると説いていたらしいが、半藤氏がそうなるのかと問うたところ、こう一喝したという。

バカもん、なにをアホなことを考えているのだ。日本人の男を全員カリフォルニアに運んでいくのに、いったいどれだけの船がいると思っているのかッ。日本中の女性を全員アメリカ人の妾にしたら、アメリカの女たちはどうするんだ、黙っていると思うか。馬鹿野郎。


この父親の一喝にはリアリティがある。これまでの自分の発言をひっくり返す一人ボケ&ツッコミだが、要は「くよくよしてないで、明日のこと考えろ」ということである。半藤氏自身、この父親の言葉で目が覚め、日本の明日のためにも勉強しようと思ったらしい。さらに言えばこの父親こそが、平均的な日本人だったのではないかと思う。戦争中は軍国主義になり、戦争が終わればその主義を簡単に捨て去る。こうしたある種のたくましさが日本をここまで復国させたのではないかと思う。

その復国した今の日本において、『誰も戦争を教えてくれなかった』という大胆なタイトルの本を書いたのが、古市憲寿氏だ。半藤氏の『十二月八日と八月十五日』は確かにその時代を生きた人々の文章が伝えるリアリティがあるが、半藤氏が「新かな、新字とし、ときに漢字をひらき句読点をほどこすなど、読みやすくした」というものの、当たり前だが文語体が多く、読みづらいさがあるのは否めない。何より70年前のことになるのだから、にわかには信じがたいことがあるのも事実である。

1985年生まれの古市氏自身はそうした現実を感じるところもあり、彼は戦争博物館・平和博物館を自分の足で訪ねることで、自分なりの戦争論を導こうとしている。ハワイのアリゾナ・メモリアルに始まり、中国の南京大虐殺紀念館、長春の偽満皇宮博物館、瀋陽の九・一八歴史博物館、旅順の二0三高地、上海のショウコ抗戦紀念館、シンガポールのシロソ要塞やチャンギ博物館、香港の海事博物館、ポーランドアウシュビッツ、ベルリンのユダヤ博物館、ローマの解放歴史博物館、韓国の独立紀念館や戦争記念館、そして広島、沖縄、京都、愛知、東京、なぜか関ヶ原関ヶ原ウォーランドがあるらしい)。

印象に残ったのが、国によって戦争の伝え方は異なり、それによって博物館の作り方も当然変わってくるのだが、日本は教科書で戦争をどう表現するかで揉めているくらいなので、博物館のつくりも中途半端なものになっていることだ。これでは、「誰も戦争を教えてくれなかった」と言っても仕方がないともいえる。ズ

巻末に戦争博物館ミシュランも掲載されているし(エンタメ性、目的性、真正性、規模、アクセスを手榴弾マークで採点)、旅行記として読んでもおもしろい。SNS世代なので、随所に容赦ないツッコミがあり、読んでて笑える部分もある。セカオワの歌詞の引用で締めるというのには、世代ギャップを感じてしまうが…。

あえて世代の異なる著者の二冊を紹介したが、強引に共通点を挙げるとすればリアリティだ。半藤氏は昭和5年(1930年)生まれ、昭和16年(1941年)から昭和20年(1945年)の戦争時は今で言えば小学5年生から中学3年生にあたるので、リアリティがあるのは当然である。古市氏は終戦から40年たった昭和60年(1985年)生まれ、平成元年の1989年はまだ幼稚園児なので、平成世代と言っていいが、自分の足で戦争博物館を見に行くリアリティがある。

戦争のリアリティを身近に感じる方法でいちばん良いのは体験者の話を聴くことだが、戦後70年を迎え、語り部の減少は深刻化している。僕は生まれた一年後に父が亡くなったため、母方の祖父母の家に住んでいたのが、戦時中は軍医だった祖父は僕が中学生の時に亡くなっているし、母を含む幼子3人を疎開先で育てた祖母は今は認知症でホームにいる。祖父母二人とも戦争のことはあまり語らなかったが、兄や僕が誕生日プレゼントに軍艦や戦闘機のプラモデルを欲しがると、「そんなもの欲しがるんじゃないよ」と僕らを叱った。兄は小遣いをため自分で買うようになり、今でもプラモデルづくりが趣味だが、僕はその代わりに音楽を聴くようになった。

なので、いつものように音楽オチにするが、戦争についていろいろ知ろうとするのだが、結局のところ、僕がいつもたどり着く結論は、

死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対! by  スネークマンショー

である。ん? そういう考え方をするのは利己的個人主義?それなら、

戦争に反対する唯一の方法は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。 by  吉田健一(英文学者。吉田茂・元首相の息子)。

でどうだ。もっと利己的個人主義か。

誰も戦争を教えてくれなかった

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死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対! (プラケース仕様)

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