明日に向かって捨てろ‼

Twitterでこんなニュースを見かけた。


「ライバルは4次元ポケット」という見出しに、ドラえもん世代なので興味を引かれたが、単なる倉庫サービスで、スマートフォンで荷物を預けるための段ボール手配、持ち物の管理、預けているモノの管理ができ、預けたモノは倉庫で撮影される写真でいつでも閲覧が可能なことがウリのようだ。

結婚を機に、独り暮らしをしていた頃に山積みとなったレコード&CD、本&漫画を倉庫に預けようと考えたこともあったが、結局母に頼み、実家に置かせてもらっている。実家は今住んでいる家から近いので、あのCDが聴きたくなった、あの漫画を読みたくなったと、ちょくちょく取りにいく。新しく買ったCD、本&漫画も順調に増えている。当然、わずか数年で我が家には棚に入りきらず、モノの山が出来始めた。ちなみにこれまで当ブログではツッコミ役として登場してきた妻だが、実はかなり重度の本好きで、本の山をもっぱら築いているのは彼女である。

何とかせねばと考えていた折に、スチャダラパーBOSEの『明日に向かって捨てろ‼』を見つけ、買って読んだのだが、これが捨てるという点ではまったく参考にならなかった。いや、面白すぎてまた本が一冊増えただけと言った方がいいだろう。捨てるべきか捨てないべきかと悩むモノが、コンプリートしてないガチャガチャのフィギュア、録画とソフトのダブりビデオテープ、家電品のトリセツ、必要な度に買い増えた工具、CDのオマケやフライヤーがわりにもらうステッカー、果ては出前チラシなど、そんなモノ捨てろよ!とツッコミたくなるモノばかりを取り上げ、笑い話にする。つまり、なかなか捨てられないよねと愚痴るのではなく、解決不能問題を遊ぼうという開き直りの本なのだ。

あらゆるモノのデータ化が進み、“所有”から“アクセス”へと変化しつつあるが、モノにはそれにまつわる記憶があり、その所有者を表す役割もある。仮にあらゆるモノをデータ化し、さらにわずかに残したモノまで冒頭の倉庫サービスに預け、服もレンタル・サービスを利用している人の家に訪れたとする。不動産屋のカタログに掲載されているようなオシャレなきれいな部屋かもしれない。しかし、そこに住む人がどんな生活をし、日々何を考えているのかは伝わってこないのではないか。もし、この本の主人公であるBOSEの部屋がそうだったら、それはないだろと思うだろう(そもそも本の企画が成り立たない)。中途半端なフィギュアやビデオテープ、レコード、本などに囲まれ生活しているからこそ、スチャダラパーのあのオモロHip-hopが生まれるのだと思う。

と、いい結論でまとめた気になっているが、最近テレビに出てくるようなゴミ屋敷にはならないよう気をつけたいとは思いつつ、妻の本の山に躓き、足の小指の痛みを紛らわせようと、この記事を書いているのだった。妻よ、特にファッション雑誌は凶器になるから片付けてくれ…。

明日に向かって捨てろ!!

明日に向かって捨てろ!!






風街レジェンド2015 8/22 東京国際フォーラム


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【セットリスト】
・夏なんです/はっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆
・花いちもんめ/はっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆
・はいからはくち/はっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆)+佐野元春
・てぃーんず ぶるーす/原田真二
・タイム・トラベル/原田真二
・シンプル・ラブ/大橋純子
・ペイパー・ムーン/大橋純子
・三枚の写真/石川ひとみ
・東京ららばい/中川翔子
・セクシャルバイオレットNo. 1/美勇士
・ハイスクール ララバイ/イモ欽トリオ
・赤道小町 ドキッ/山下久美子
・誘惑光線・クラッ!/早見優
風の谷のナウシカ/安田成美
菩提樹/鈴木准、河野紘子
・辻音楽師/鈴木准、河野紘子
・A面で恋をして/伊藤銀次杉真理佐野元春
・バチェラー・ガール/稲垣潤一
・恋するカレン/稲垣潤一
・スローなブギにしてくれ(I Want You)南佳孝
・ソバカスのある少女/南佳孝鈴木茂
・しらけしまうぜ/小坂忠
・流星都市/小坂忠
・Woman “Wの悲劇”より/吉田美奈子
カナリア諸島にて/バンド紹介
・綺麗ア・ラ・モード/中川翔子
・卒業/斉藤由貴
・SEPTEMBER/EPO
・さらばシベリア鉄道/太田裕美
・メッセージビデオ/鈴木雅之
・メッセージビデオ/矢野顕子
・やさしさ紙芝居/水谷豊
ルビーの指環/寺尾聡
【アンコール】
・風を集めて/はっぴいえんど細野晴臣鈴木茂松本隆)+出演者
・花束贈呈/松任谷由実


【感想というか覚え書き】
※夢のような約4時間だったから、どうしてもまとめようがないというか、とりとめのないものになってしまうので箇条書き。
・会場が暗転し、はっぴいえんどの風街ろまんのジャケットが映し出され、夏なんですが始まった時は涙腺が崩壊しそうになった。
・初めて生で聴く松本隆のドラムは想像以上に力強かった。
はっぴいえんどのメンバー3人で相談し決めたと紹介され、佐野元春が登場し、はいからはくちを歌ったが、大瀧詠一の不在を嫌がおうにも感じ、改めて稀有なヴォーカリストだったことを痛感した。「間奏!」を言ったのは嬉しかったけど。
太田裕美木綿のハンカチーフは初めて生で聴き、溢れ出しそうな涙をハンカチーフで抑えた。
・風街バンドという豪華なバックバンドがありながら、イモ欽トリオハイスクールララバイはカラオケだったが、あのチープなテクノ・サウンドは生バンドでは再現が難しいので、却ってイモ欽トリオのコミカルさが際立って良かった。
・出演者のほとんどかそうだったが、とりわけノンMCで登場し、赤道小町ドキッを披露し、歌い終わるとさっとステージを去る山下久美子のスマートさがイカしてた。
・白のミニワンピースで誘惑光線・クラッ!を歌う早見優にプロ意識を感じた。
・観客の大半が楽しみにしていたであろう安田成美の風の谷のナウシカは、リリース当時と変わらぬ初々しさがあった。
伊藤銀次杉真理君は天然色佐野元春を加えたA面で恋をして、稲垣潤一の恋するカレンは、再び大瀧詠一の不在を思い知らされる結果となった。
南佳孝小坂忠の男の色気と現役感のある力強い歌声は良かった。
吉田美奈子のWoman“Wの悲劇”より、ガラスの林檎の原曲を無視したアバンギャルドなアレンジは圧巻だった。
斉藤由貴の卒業の春、EPOのSEPTEMBERの秋、太田裕美のさらばシベリア鉄道の冬、という季節のうつろいを表す演出は見事だった。
水谷豊、寺尾聡の男の色気と歌唱力にやられた。
・アンコールのはっぴいえんどの2曲は予想はできたが、やはり嬉しかった。
・最後に細野晴臣の「すごいゲストが来ている」の紹介で松任谷由実が登場し、松本隆に花を渡し、「戦友」と言ったのは印象的だった。

【余談】
・休憩がなかったとは言え、席を立ち体を屈めずトイレに行き、曲の途中でも席に戻る観客の多さに呆れた。若者の音楽フェスのマナーの悪さがよく指摘されるが、大人のほうがよっぽどマナーに緩く、悪い。
・無理だとわかってはいるが、松本隆の作詞の恩恵を最も受けた松田聖子近藤真彦薬師丸ひろ子中山美穂が出演しなかったのは残念だった。


『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』を読んで、『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?の呪い』もあるか考えてみた。

1985年3月にリリースされた「ウィ・アー・ザ・ワールド」をご存知だろうか? アフリカの飢餓と貧困の救済のために当時人気のあったアメリカのアーティスト45名が集結したU.S.A.・フォー・アフリカによるチャリティーソングで、作詞・作曲はマイケル・ジャクソンライオネル・リッチーが共作し、プロデュースはクインシー・ジョーンズが担当(今で言えばファレル・ウィリアムスカニエ・ウェストが共作し、ジェイ・Zがプロデュースするようなもの)。豪華な顔ぶれもあってアメリカ国内だけで400万枚のセールスがあったという。シングルの他にアルバム、ビデオも製作され、6300万ドルの収益が寄付された。

 
このチャリティーソングに“呪い”があったという興味深い説を唱えたのが西寺郷太さんの『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』。この曲に参加したアーティスト逹の人気が急に落ち、アメリカン・ポップスの青春を終わらせたのではないのかというのだ。確かに、ライオネル・リッチースティービー・ワンダービリー・ジョエルダリル・ホール&ジョン・オーツ、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、シンディ・ローパーなどの人気アーティスト逹は「ウィ・アー・ザ・ワールド」参加以降、それまでと同様に活動しているにもかかわらずヒット・ソングに恵まれず、人気が衰えている。その一方で、皮肉にも参加しなかったマドンナは現在でも世界的な人気アーティストとして君臨している。
 
僕がこの本がとても興味深いと感じたのは、「ウィ・アー・ザ・ワールド」の考察だけでなく、映画音楽に始まるアメリカン・ポップスの歴史をコンパクトにまとめ、映像と音楽の融合がアメリカン・ポップスの発展に貢献したことをコンパクトに解説しているところだ。確かに1980年代、プロモーション・ビデオを放映する「ベストヒットUSA」や「ポッパーズMTV」は夢中になって見たし、アーティストの演奏シーンが多かったなか、マイケル・ジャクソンの「スリラー」は映画のようで衝撃的だった。「ウィ・アー・ザ・ワールド」のプロモーション・ビデオも次々と映し出される人気アーティストの姿に興奮したし、特にブルース・スプリングスティーンの暑苦しい泣きのシャウトは当時友達の間で物真似ネタになった。
 
と、ここまで書いて言うのもなんだが、僕は「ウィ・アー・ザ・ワールド」は好きではなかった。困っている人を助けましょう的なお涙頂戴の典型的なバラードで、シラケてしまったのだ。「We are the world, we are the children」という歌詞もシンプル過ぎるだけに、その意図がよくわからなかった。
 
僕は、この曲のきっかけとなったイギリスのバンドエイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」の方が好きだった。ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」は1984年12月にアフリカのエチオピア救済のためにブームタウンラッツのボブ・ゲルドフが呼び掛け人となり作詞を担当、ウルトラ・ヴォックスのミッジ・ユーロが作曲、プロデューサーは当時ZTTレーベルを主宰しフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド仕掛人として話題になっていたトレヴァー・ホーンが行っている。
 
いかにもクリスマスっぽいシンセサイザーサウンドを基調とした明るいポップなアレンジで、「Feed the world,  let them know it's Christmas time again (世界に食糧を 彼らに再びクリスマスがやってくるのだと伝えるために)」というメッセージはわかりやすく、ポジティブだった。ちなみにこのレコードは当時日本版の製作は間に合わなかったためか、輸入盤のジャケットに日本語のタイトル・参加アーティストなどが書かれたシールが貼られ、いわゆる帯はなかった。歌詞カードはあり、解説は湯川れい子さんが書いている。
 
メイン・ヴォーカルを順番に書くと、ポール・ヤング→ボーイ・ジョージ(カルチャークラブ)→ジョージ・マイケルワム!)→サイモン・ル・ボンデュラン・デュラン)→トニー・ハドリー(スパンダー・バレエ)→スティング(ポリス)→ボノ(U2)→ポール・ウェラースタイル・カウンシル)→グレン・グレゴリー(ヘヴン17)。ドラムはフィル・コリンズである。カップリングは「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」のインストにアーティスト逹がメッセージを吹き込んだ「フィード・ザ・ワールド」で、ポール・マッカートニーデヴィッド・ボウイも参加している。
 
余談だが、トップバッターがポール・ヤングだったことは、当時の洋楽好き友達の間では疑問視する者が多かった。ポール・ヤングはダリル・ホール&ジョン・オーツのカバー曲「エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」がヒットし、洋楽好き少年のバイブルだった雑誌『ミュージック・ライフ』の東郷かおる子編集長一押しのアーティストだったが、日本ではデュラン・デュランカルチャー・クラブワム!の方が人気だった。
 
西寺郷太さんによると、ボーイ・ジョージはレコーディングの開始に間に合わず、滞在していたアメリカからコンコルドで駆け付けたそうだが、レコーディング開始時点ではサイモン・ル・ボンジョージ・マイケルもいたのだから、どうやって歌う順番を決めたのかは気になる。参加アーティストはボブ・ゲルドフの人脈で集めたのだから、彼が決めたのだろうが、西寺郷太さんいわく若いアーティストが中心だったため、レコーディングは険悪なムードだったという。プロモーション・ビデオでボノが歌うシーンでは、隣で歌うスティングが明らかに不快そうな表情を見せていたのが印象に残っている。さらに付け加えると1985年7月19日にイギリスとアメリカで同時開催され、日本でも衛星中継された「LIVE AID」でポール・ヤングは自分の出演時に「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」のイントロを歌っているが、フィナーレの参加アーティスト全員による合唱時には、デヴィッド・ボウイに自分が歌ったパートを譲っている。
 
で、問題の“呪い”。確かに「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」発表以降、“呪い”は発動している。ポール・ヤングは1986年に3rdアルバム『ビットウィーン・トゥー・ファイアーズ』を発表するが不発。カルチャー・クラブ1984年に発表した3rdアルバム『ハウス・オン・ファイヤー』収録のシングル「ウォー・ソング」で反戦をテーマにし、カップリングがサビをドイツ語、フランス語、日本語で歌った国別ヴァージョンであることが発売前に話題になったが不発(日本語版はセンソウヘンタ~イに聴こえた)、さらにボーイ・ジョージがドラッグ所持で逮捕され、活動停止。デュラン・デュランは1985年に映画007の主題歌「美しき獲物たち」をヒットさせるが、ドラムのロジャー・テイラー、ギターのアンディ・テイラーが相次いで脱退し、人気は下降。フィル・コリンズは1990年まではヒット曲を連発していたがそれ以降人気を落とし、2011年3月に引退を表明している。ワム!は1986年に解散しジョージ・マイケルはソロになり1987年に『フェイス』が大ヒットするが、2nd『Listen Without Prejudice Vol.1』が不発し、1998年に公衆わいせつの罪で逮捕された。スパンダー・バレエとヘヴン17はイギリスでは人気グループだったが、何故か日本ではあまり売れなかった(僕は好きだったが)。
 
現在も活躍しているのはU2、スティング、ポール・ウェラーぐらいである。付け加えれば、洋楽ファンのバイブルであった『ミュージック・ライフ』は1987年に『ロッキング・オン』に発行部数トップの座を譲り、1988年12月に休刊している。
 
呼び掛け人であり、U.S.A.フォー・アフリカのレコーディングにも立ち会い、コーラスにも参加したボブ・ゲルドフはどうか。1979年に「哀愁のマンデイ」が全英1位になったブームタウンラッツだったが、その後ヒットには恵まれず1986年に解散し、ボブ・ゲルドフは1986年、1990年、1992年にソロ・アルバムをリリースしているが、ヒットした記憶はない。むしろチャリティーにのめり込み、1989年にバンドエイドⅡ、2004年にバンドエイド20、2014年にバンドエイド30と参加メンバーを変えて「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」をリメイク、2005年7月には1985年の「LIVE AID」の再現として「LIVE 8」を開催している。なぜ「8」なのかというと、G8(先進8ヵ国首脳)に対しアフリカ支援を訴え、貧困にあえぐ人々に対する債務の帳消、支援金額の倍増、公正な貿易ルールの実現を要求するためだった。それを象徴するかのように参加アーティストの一人のスティングは、ステージのスクリーンに写し出されたG8の首脳の写真をバックに「見つめていたい」を歌った(あんた逹の一挙一動を監視してるぜというメッセージである)。
 
このようにボブ・ゲルドフがチャリティーに取り憑かれた様こそ“呪い”だと言う人もいるかもしれないが、僕は“信念”と捉えたい。悪名もある彼だが、30年にも渡ってアフリカを支援する姿勢は誰でもできるものではない。仕事で開発途上国支援のNGOや国際機関の人々を取材したことがあるが、彼らは異口同音に活動の継続の大切さと難しさを話していた。
 
では、「ウィ・アー・ザ・ワールド」と「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」の“呪い”とは何なのか。この一言で片付けるのは安直かもしれないが、時代の流れとしか言い様がない。アメリカでは1985年以降、ホイットニー・ヒューストンジャネット・ジャクソンボビー・ブラウンなどの新しい世代の黒人アーティスト、ボン・ジョヴィガンズ・アンド・ローゼズなどのハードロック・バンドが人気になり、イギリスではカイリー・ミノーグ、リック・アストリーなどのユーロ・ビートが人気になった。アメリカ、イギリスともにいわゆる“ポップス”の人気は失速した。1990年代に入るとヒップホップやグランジオルタナティブ・ロック、さらにはテクノ/ハウスなど音楽ジャンルが細分化し、“ポップス”という大きな枠組みは崩壊していった。
 
一方、日本ではBOOWYブルーハーツレベッカなどのロックバンド、渡辺美里中村あゆみなどの女性シンガーソングライター、TM Networkバービーボーイズ米米クラブなどの新しいタイプのバンドといった、後のJポップ/ロックに発展していくブームが起き、洋楽の人気が下降し始めた。またレコードからCDへの変化も起きた。僕が通っていたレンタル・レコード屋も洋楽中心だったが、段々と邦楽が増え半々に、CDも徐々に増え、僕がバイトを始めた1989年には全てCDになっていた。
 
1980年代の洋楽は産業音楽とも言われ、音楽の発展には貢献しなかったという批判もある。しかし、西寺郷太さんが指摘しているように、“売れ線狙い”の“万人うけする”音楽だったからこそ、「老若男女、皆が知っている曲があった」と思う。過去記事で書いたが、僕の甥のように邦楽しか聴かない世代も増えている。もちろん今が旬の音楽を聴くこともいいが、どんな音楽も昔があるからこそ今がある。AppleMusicなどの定額ストリーミングの時代が到来し、自由に音楽にアクセスできるようになった今こそ、西寺郷太さんの『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』のような本を通して音楽の歴史を知ることはますます大切になっていると思う。新しい音楽との出会いは今だけでなく、過去にもあるのだから。
 
でも、「ウィ・アー・ザ・ワールド」や「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」は買って聴こうね。そうしないと、アフリカに寄付金がいかないから。
 

 

 

 

ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い (NHK出版新書 467)

ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い (NHK出版新書 467)

 

 

 

 

 
 
 
 
 

12月8日と8月15日の日記をまとめた老人、戦争博物館を訪ねた若者、「死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!」が好きな僕。利己的個人主義は誰?

戦後70年ということもあり、テレビでは連日戦争関連の特別番組が放映されている。また、まるでタイミングを合わせたかのように、安保関連法案をめぐる動きも活発化している。僕のツイッターのフォロワーさんは音楽つながりがほとんどなのだが、タイムラインに音楽、映画、美術、本、ファッション、○○食べたなどのツイッターに混じって、山本太郎議員の発言のリツイートがあるという、カオスな状態が続いている。

僕はジローズの「戦争を知らない子供たち」が発表された年に生まれた。ベトナム戦争が激化し日本でも反戦平和運動が盛り上がるなか、大阪万博で初めて歌われ、レコードは当時オリコンチャート11位を記録し、日本における代表的な反戦歌として知られているが、『地球攻撃命令 ゴジラガイガン』の挿入歌にも使われた迷曲でもある。

いつものように前置きが長くなったが、「戦争を知らない子供」なりに、戦争を知ろうと、夏が来ると思い出したかのように戦争関連の本を読む。今回は、戦争を知っている老人の本と、戦争を知らないどころか、教えてくれなかったとまで言う若者の本、2冊を紹介したい。

まず、半藤一利編著『十二月八日と八月十五日』。タイトルからわかる通り、12月8日は真珠湾攻撃があった開戦の日、8月15日は終戦を迎えた日である(終戦はポツダム宣言を受託した8月14日だとドヤ顔する人もいるが、一般国民が知ったのはあくまで8月15日)。半藤氏はこの両日に書かれた日記、手記、句歌などを通じて、当時日本人がどんな気持ちで開戦を迎え、終戦を受け入れたのかを伝えようとしている。引用されている文章の多くは作家、歌人、ジャーナリストなどのいわゆる文化人・知識人だが、政府または軍の関係者ではないので、いわゆる銃後の人々がどう感じたかは伝わってくる。また、史実をもとに午前6時から午後10時の時系列に沿って紹介する手法は、さすが昭和史の名探偵の異名をもつ半藤氏ならではある。

まず、12月8日については、文化人・知識人ですら開戦を熱狂的に受け入れたという事実が興味深かった。あの「君死にたまふことなかれ」で知られる与謝野晶子ですら、感慨に耽った句を詠んでいる。当時日本は日中戦争が泥沼化し、疲弊していた。開戦の知らせは、その鬱憤を晴らす明るいニュースだったのだ。

文筆家たちもまた、真の情報から遠くにあり、一般国民の一人にすぎなかった。不安感、緊張感、鬱陶しさからぬけでたようなすっきりした気持ち、さらには驕れる大国米英にあえて挑戦したという気の遠くなるような痛快感。それらが混ざりあった気持を味わいつつ、書き残していたに違いない。おもむろに日本人すべてが高揚した気分に導かれはじめていったのは事実である。


一方、8月15日については、一般的には「終戦記念日」として知られ、メディアでも取り上げられることが多いためか、こういった感じだったのだろうという感想をもった。天皇陛下玉音放送の内容がよくわからず、徹底抗戦と勘違いした人もいたようだが、天皇陛下の「一種異様な、抑揚のついた朗読」は確かに今聴いても奇妙なものではあるものの、国民の戦意を煽るような高揚感はなく、神妙な気持ちになる。内容がわからないというより、今風に言えば「何ソレ、イミフ」と呆然とし、その後「ナミダメ」という感じだったのだろう。

印象に残ったのは、半藤氏の父親の言葉。半藤氏の父親は軍国主義で、日本の男性は全員、カリフォルニアかハワイに送られて奴隷に、女性は全員アメリカ人の妾になると説いていたらしいが、半藤氏がそうなるのかと問うたところ、こう一喝したという。

バカもん、なにをアホなことを考えているのだ。日本人の男を全員カリフォルニアに運んでいくのに、いったいどれだけの船がいると思っているのかッ。日本中の女性を全員アメリカ人の妾にしたら、アメリカの女たちはどうするんだ、黙っていると思うか。馬鹿野郎。


この父親の一喝にはリアリティがある。これまでの自分の発言をひっくり返す一人ボケ&ツッコミだが、要は「くよくよしてないで、明日のこと考えろ」ということである。半藤氏自身、この父親の言葉で目が覚め、日本の明日のためにも勉強しようと思ったらしい。さらに言えばこの父親こそが、平均的な日本人だったのではないかと思う。戦争中は軍国主義になり、戦争が終わればその主義を簡単に捨て去る。こうしたある種のたくましさが日本をここまで復国させたのではないかと思う。

その復国した今の日本において、『誰も戦争を教えてくれなかった』という大胆なタイトルの本を書いたのが、古市憲寿氏だ。半藤氏の『十二月八日と八月十五日』は確かにその時代を生きた人々の文章が伝えるリアリティがあるが、半藤氏が「新かな、新字とし、ときに漢字をひらき句読点をほどこすなど、読みやすくした」というものの、当たり前だが文語体が多く、読みづらいさがあるのは否めない。何より70年前のことになるのだから、にわかには信じがたいことがあるのも事実である。

1985年生まれの古市氏自身はそうした現実を感じるところもあり、彼は戦争博物館・平和博物館を自分の足で訪ねることで、自分なりの戦争論を導こうとしている。ハワイのアリゾナ・メモリアルに始まり、中国の南京大虐殺紀念館、長春の偽満皇宮博物館、瀋陽の九・一八歴史博物館、旅順の二0三高地、上海のショウコ抗戦紀念館、シンガポールのシロソ要塞やチャンギ博物館、香港の海事博物館、ポーランドアウシュビッツ、ベルリンのユダヤ博物館、ローマの解放歴史博物館、韓国の独立紀念館や戦争記念館、そして広島、沖縄、京都、愛知、東京、なぜか関ヶ原関ヶ原ウォーランドがあるらしい)。

印象に残ったのが、国によって戦争の伝え方は異なり、それによって博物館の作り方も当然変わってくるのだが、日本は教科書で戦争をどう表現するかで揉めているくらいなので、博物館のつくりも中途半端なものになっていることだ。これでは、「誰も戦争を教えてくれなかった」と言っても仕方がないともいえる。ズ

巻末に戦争博物館ミシュランも掲載されているし(エンタメ性、目的性、真正性、規模、アクセスを手榴弾マークで採点)、旅行記として読んでもおもしろい。SNS世代なので、随所に容赦ないツッコミがあり、読んでて笑える部分もある。セカオワの歌詞の引用で締めるというのには、世代ギャップを感じてしまうが…。

あえて世代の異なる著者の二冊を紹介したが、強引に共通点を挙げるとすればリアリティだ。半藤氏は昭和5年(1930年)生まれ、昭和16年(1941年)から昭和20年(1945年)の戦争時は今で言えば小学5年生から中学3年生にあたるので、リアリティがあるのは当然である。古市氏は終戦から40年たった昭和60年(1985年)生まれ、平成元年の1989年はまだ幼稚園児なので、平成世代と言っていいが、自分の足で戦争博物館を見に行くリアリティがある。

戦争のリアリティを身近に感じる方法でいちばん良いのは体験者の話を聴くことだが、戦後70年を迎え、語り部の減少は深刻化している。僕は生まれた一年後に父が亡くなったため、母方の祖父母の家に住んでいたのが、戦時中は軍医だった祖父は僕が中学生の時に亡くなっているし、母を含む幼子3人を疎開先で育てた祖母は今は認知症でホームにいる。祖父母二人とも戦争のことはあまり語らなかったが、兄や僕が誕生日プレゼントに軍艦や戦闘機のプラモデルを欲しがると、「そんなもの欲しがるんじゃないよ」と僕らを叱った。兄は小遣いをため自分で買うようになり、今でもプラモデルづくりが趣味だが、僕はその代わりに音楽を聴くようになった。

なので、いつものように音楽オチにするが、戦争についていろいろ知ろうとするのだが、結局のところ、僕がいつもたどり着く結論は、

死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対! by  スネークマンショー

である。ん? そういう考え方をするのは利己的個人主義?それなら、

戦争に反対する唯一の方法は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。 by  吉田健一(英文学者。吉田茂・元首相の息子)。

でどうだ。もっと利己的個人主義か。

誰も戦争を教えてくれなかった

誰も戦争を教えてくれなかった

死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対! (プラケース仕様)

死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対! (プラケース仕様)

1991年2月のネオアコ界のカリスマ(?)の来日公演レビュー、または青春は一度だけ。


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ツイッターのフォロワーさんのツイートで、イギリスのネオアコ・バンド、The Hit Paradeの来日公演に行ったことがあるというのを見かけ、懐かしいと思い、

ひょっとして、エドウィン・コリンズ@川崎クラブ・チッタでのオープニングアクトでしょうか? ブリッジも出演しましたよね。フリッパーズのお二人がエドウィンのアンコールの“Falling and Laghing”で激しく体を揺らしていたのを見かけた覚えがあります。
とツイートしたら、その公演ではないので、どんな感じだったのかと聞かせてほしいと返信があった。手元に大学時代に所属していた音楽サークルの同人誌でライブレビューを僕が書いてたものがあったので、それを元に四半世紀前の昔話を綴ることにする。
 
当時、僕はフリッパーズ・ギターにはまっていて、彼らが影響を受けたと雑誌やラジオで紹介するアーティストも聴きたいと思っていた。しかし、彼らが紹介するネオアコ/アノラックのアーティストのほとんどは1980年代に活動し、すでに解散してる場合が多く、レコードは廃盤になっていた。僕がツイートしたエドウィン・コリンズが在籍していたバンド、Orange Juiceもその1つ。セカンド・アルバムの『Rip It Up』(邦題:キ・ラ・メ・キ・トゥモロー)は輸入盤CDで再発されていたが、フリッパーズ・ギターが名盤と盛んに紹介し、彼らのバンド名の由来でもあるイルカがジャケットのファースト・アルバム『You Can’t Hide Your Love Forever』は発表時に日本盤はリリースされなかったので、幻の一枚になっていた。
 
そのアルバムが、雑誌のインタビューでフリッパーズ・ギターの二人が自分達の熱望により1991年3月1日にCDで再発されると発言したことを知り、僕は喜んだ。発売日にバイトの給料も入った僕は勇んで渋谷HMVに行ったのだが、いくら探しても見つからないので、店員に尋ねると「そんなものは入荷してない」の冷たい一声。意地になり発売元のレコード会社に電話で問い合わせると、イギリスのレコード会社と版権でもめ発売延期になり、いつリリースされるかは未定との回答だった(このアルバムはその後、めでたくCDで再発され、ライナーにはフリッパーズ・ギターの二人の対談が掲載された)。
 
発売延期に途方にくれていた僕だったが、実はその数ヵ月前に日本の輸入・中古レコード屋のヴィニール・ジャパンがこのアルバムの別テイクと未発表曲+スタジオセッションを収録したブートレグ『Fallin’ & Laughin’』をリリースしていた。さらに発売を記念し、エドウィン・コリンズの来日公演まで実現することになっていた。前置きが長くなったが、かくして、1991年2月13日にエドウィン・コリンズ初の来日公演、オープニング・アクトはThe Hit Parade、THE BRIDGEが、クラブチッタ川崎で開催されたのである。
 
ここからは、当時僕が書いたライブレビューを抜粋していきたいと思う。かなりの拙文なのだが(今とあんまり変わらないか)、自分で読んででも恥ずかしさを通り越して笑えるので引用したい。お目汚しになるがお付き合いいただければ幸いである。画像ではわかりにくいかもしれないが、僕のライブレビューの隣ページはチェッカーズ。大学のサークルの同人誌だけあって、取り合わせがチグハグなのも余計に笑える。
 
今日は、全国ネオアコ大集会の日ーー誰がなんと言おうとそうなのだ。ネオアコ界のカリスマ、あの元Orange Juiceのエドウィン・コリンズがこのクラブチッタ川崎でライブをやるのだ。しかも、ゲストにTHE BRIDGEとThe Hit Paradeを迎えるという超豪華な取り合わせで、だ。
 
うーん、我ながら大学生のくせして厨二病全開の力んだ書き出し(苦笑)。渋谷直角あたりにイジられそうだ。まずは、現在も活躍されているカジ・ヒデキさんが在籍していたTHE BRIDGE。
 
THE BRIDGEのメンバーはカチコチに緊張していたみたい。5曲ほどの短いステージだったけど、“He, She&I ”のベース・ラインのカッコ良さがアルバムで聴いた時よりもはっきりと伝わってきて、あらためていい曲だなぁと思った。
 
続いて、後にポリスターから日本デビューもしたThe Hit Parade。
 
二番手のThe Hit Paradeは文句なしのポップなライブを見せてくれた。3分のポップ・ソングを立て続けに演奏する彼らのステージはすごくシンプルだし、3人だから音もスカスカだし、おまけに彼らはみんなお世辞にもうまいと言えないぐらい下手っぴだ。でも、楽しそうに演奏をしている彼らを見ていると「まぁ、それもご愛敬」っていう感じ。(中略)。とにかく思わず口ずさみたくなるようなポップソングが目白押しの、本当に楽しくてハッピーなステージだった。
 
そして、メインアクトのエドウィン・コリンズ。
 
後にいた人も前につめかけ、彼がステージに現れると歓声が渦のように巻き起こる。「カッコいい!」なんて言う人もいる。黒のリッケンバッカーを弾きまくり、歌いまくり、アクションを決める彼の姿は、確かにエルヴィス・プレスリーみたいにカッコ良かった(中略)。何処から見ても非の打ち所のない、完璧なロックンロール・ショーだった。
 
アンコールでエドウィンはOrange Juiceのファーストアルバムに収録されている“Fallin’ & Laughin’”をギター1本で熱唱した。アンコール前はソロの曲しかやってなかったので、会場は大盛り上がりになった。この曲はフリッパーズ・ギターの二人がラジオでかけたり、彼らと親交のあるライターの瀧見憲司氏がクラブで回していたので、ネオアコ・クラシックとして知られていた。この時、後から二人の男性が前に押し寄せてきた。フリッパーズ・ギターのお二人で、エドウィンのギターのカッティングに合わせて激しく体を揺らし、一緒に見に行った女の子の目が釘付けになった。
 
ライブが終わり、みんな満足気だった。ところが、僕の感想は違った。
 
…だけど、僕はすごく複雑な気持ちだった。確かにエドウィンはすごくカッコ良かった。でも、それは僕が見たかったエドウィンじゃなかった。Orange Juice解散後、彼が発表した2枚のアルバムはアメリカよりのロックンロールだった。それも、どちらかというと1960年代のアメリカのフォークロックに近いものだった。別に、僕はフォークロックが嫌いというわけでもないし、彼のソロアルバムもちゃんと持っている。でも、僕が彼に期待しているのはエルヴィスじゃなくて、ネオアコなんだ。
 
今はソロアルバムのレイドバックした感じがいいと思うのだが、それは僕が年を取ったからだろう。
 
僕はネオアコが大好きだ。たとえ、ロックをダメにした音楽であっても、何の衝動性も発展性もなくても、人に言うのがちょっと恥ずかしい世界であっても、だ。僕は最近、すごく「モラトリアム」にこだわっていた。僕は「モラトリアム」というものを別に悪く考えていなかったし、むしろモラトリアムだからこそ生まれるものもあると肯定的にとらえていた。でも、この日歌われた“Ghost Of A Chance ”を聴いて僕の心は揺らいだ。エドウィンはこの歌の中で「新しい歌を探しているんだ いつまでも昔にとらわれたくないんだ 誰にだってチャンスが必要なんだ」といった感じのことを歌っている。何か、身につまされるような気がした。

 

当時、雑誌ロッキングオンで「フニャモラー」という言葉が流行っていた。ネオアコやマンチェなどの青臭さのある音楽をやるイギリスのアーティスト、それを聴く男を「フニャフニャしたモラトリアム(簡単に言えば軟弱者)」と揶揄する言葉で、自虐の意味にも使われていた。

 

もちろん、僕だっていつまでもフニャモラーじゃいけないことはわかっている。それをネオアコ界のカリスマ的存在のエドウィン・コリンズのライブで感じるとは、僕にとってすごく皮肉なことだった。…悪いけどエドウィン、今日のあなたには“three cheers ”を送る気には僕はなれないよ。

 

以上、かなり長くなったが、僕の1991年2月13日の思い出である。もちろん、これは個人的なものであり、違う感想を持った人も当時いたはずだ。ただ、Wikipediaなどを見ていると、リアルタイムだった者としては違和感を感じることもあり、幸い今回は大学時代に自分が書いた文章が手元にあったので、書き留めるのもいいと思った。

パソコンもネットもなかったあの頃、僕らは誰かから聞いた話じゃなくて、自分の目で見たライブ、耳で聴いたレコードのことをワープロで原稿を打ち、感熱紙に印刷し、それを縮小コピーし、雑誌などからコピーした写真とともに方眼紙にのり付けして版下をつくり、町の小さな印刷所に印刷・製本を頼んでいた。そんな手作りのアナログなものだって、時代の証言になることもあるはずだ。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。最後に一言、青春は一度だけ。(←今もあの頃とあんまり変わってないか…)

 

もし無人島でひとりぼっちになるとしたら、何を持っていく?

「もしも、無人島で一人ぼっちになるとしたら、何を持っていく?」

この質問は、飲み屋での男の与太話でよく出てくると思う。音楽好きだと、1枚だけレコードを持っていけるとしたら何にするか、と続く。大抵そもそもその島で生きて行くための食料はあるのかとか、無人島に電気が通っててプレイヤーがあるわけないだろとか、突っ込みが入るが、与太話なのだから、そういう細かいことはどうでもいい、要は一生の一枚を知りたいということだ。

しかも、ただ単にお気に入りの一枚を知りたいというわけではない。他人が選んだ一枚を聞いて「なかなかセンスあるじゃん」とか「それはないだろ」とか思ったり、さらには大袈裟だがその一枚からその人の人生観が見えてきたりすることもある。ちなみに故・ナンシー関さんのエッセイで読んだのだが、キャイ~ンのウドちゃんに無人島に何を持っていくかと質問すると、「天野くん」と迷わず即答したそうだ。

もしも、浅井慎平泉麻人太田和彦奥田英朗片岡義男亀和田武熊谷達也椎名誠ジョン・カビラしりあがり寿高橋幸宏立川志らく玉村豊男萩原健太古田新太細野晴臣誉田哲也松山猛が、無人島でひとりぼっちになるとしたら、持っていくレコード1枚、映画1本、本一冊はーー『無人島セレクション』は、ナイスミドルのオヤジたちの与太話を集めた一冊である。

それなりに人生を重ねてきたオヤジ達だけに、そのほとんどが1つに絞るなんて無理だとぼやくわりには、選んだ一枚、一本、一冊に対して思い出を交えながら蘊蓄と愛情たっぷりに書いているのがおかしい。しかし、すでに人生の折り返し点を曲がった僕も、同じ質問をされたら同じように悩む。もっとも飲み屋の与太話の場合、ああでもない、こうでもない、と言うのも話題の盛り上がりに欠かせないのだが。

この無人島話の重要なポイントになるのが、「ひとりぼっちになる」ということだ。無人島だから当たり前なのだが、つまり一人になったら何を選ぶかということである。「ひとりで聴く」ことを前提につくられたアルバムで、最近愛聴しているものがある。PIZZICATO ONEの『わたくしの二十世紀』だ。

小西康陽によるPIZZICATO FIVEの楽曲を中心にしたセルフ・カバー集なのだが、まずジャケットからしていい。夏のリリースなのにひっそりとした東京の街の雪景色。さらにCDのラベルは小西康陽氏から個人的にもらったCD-Rかのように、手書きの文字が書かれている。収録曲はどれも控え目のアコースティックな演奏で、そこに生々しい歌声がのっかる。まさに一人で聴くのにふさわしいアルバムだ。

無人島に一人でいたら、きっと寂しいだろう。その点、このアルバムの収録曲のほとんどは、僕が1990年代に愛聴した思い出の曲ばかりで、聴いてる間は当時の音楽仲間を思い出して、寂しさも紛れるかもしれない。また、原曲は明るいハッピーな感じのものが多いが、このアルバムでは静かなアレンジなので、一人で空騒ぎすることもしないですむ。うん、これで決まりだと、いつものように妻に話すと、めずらしく拗ねながらこう答えた。

「そんな音楽選びに悩むんじゃなくて、ウドちゃんみたいに嫁と即答するべきじゃない?」


無人島セレクション Desert Island Selection

無人島セレクション Desert Island Selection


わたくしの二十世紀

わたくしの二十世紀



Wham!のラスト・クリスマスのゴーストライターは日本人と言われても信じ難いが、ケアレス・ウィスパーならあり得るかもしれないと思う

Wham!ラスト・クリスマスゴーストライターとして作曲したという日本人がいるんです」ー呑み屋の与太話としか思えない噂を、当時のWham!担当者などの証言などを交えながら、膨大な資料と豊富な取材をもとにミステリー風に展開するノンフィクション小説、西寺郷太氏の『噂のメロディー・メーカー』が面白かった。

 
この本の冒頭で西寺氏は「ラスト・クリスマス」に関してはゴーストライターはあり得ないと即座に否定するが、2曲だけ疑惑の曲があると言う。「バッド・ボーイズ」と「フリーダム」。この2曲は日本のカセットテープmaxell UDⅡのCMソングに使用された。西寺氏がなぜこの2曲を疑惑の曲だと思ったのか、それに対し当時のWham!担当者がどう答えたのかは、ぜひ本を読んでほしいのだが、僕は「あの曲の方が日本人のゴーストライターがいたと言われても不思議じゃない」と思った曲がある。「ケアレス・ウィスパー」である。
 
「ケアレス・ウィスパー」は1984年発表でイギリス・アメリカ両国のシングル・チャートで1位を獲得しており、特にアメリカのビルボード誌では1985年の年間チャート1位に輝いたWham!最大のヒット曲だ。ただこの曲は、イギリスやヨーロッパ諸国では、ジョージ・マイケルのソロ・シングルとして発表されており、アメリカでもWham! featuring George Michaelとなっている。日本ではWham!名義で発売され、Wham!の代表作として人気がある。
 
僕は当時Wham!の熱心なファンではなかった。同じように黒人音楽を志向するアーティストならポール・ヤングの方が好きだった。特に「ケアレス・ウィスパー」は初めて聴いた時から「演歌みたい」と感じた。イントロの泣きのサックス、序盤はしっとりと歌い、最後に感情を込めて歌い上げる展開は、日本人が好む典型的な“泣きの”展開だ。現に演歌歌手ではないが、「ケアレス・ウィスパー」は西城秀樹郷ひろみがカバーしている(秀樹は「抱きしめてジルバ~ケアレス・ウィスパー」として発売)。
 
「ケアレス・ウィスパー」は日本だけではなく、アジア諸国でも人気のある曲だと感じたことがある。90年代初頭にタイのプーケット、フィリピンのセブに旅行に行ったことがあるのだが、両国の空港のBGMで「ケアレス・ウィスパー」が流れていた。セブに至っては宿泊したホテルのディナー・ショーで現地人の女性歌手が歌い、レストランのボーイ達が仕事の手を止め聞き入っていた思い出がある。ちなみにこの歌手は続けて長渕剛の「乾杯」をカタコトの日本語で歌い、大ウケだった。
 
さらにはエジプトでも「ケアレス・ウィスパー」を聴いたことがある。タクシーの運転手がBGMにアラブ音楽ばかり流すので、もう少し落ち着いた音楽にしてくれと頼むと、運転手がテープを代えると「ケアレス・ウィスパー」が流れ、なぜか、どや顔で熱唱し始めたのである。
 
実は本を読んで、このエジプトでの体験の方が、ゴーストライター日本人説より納得がいくものがあった。ジョージ・マイケルの本名はジョルジオス・キリアコス・パネイトゥーで、父親はキプロス島出身のギリシャ系の移民である。キプロス島は地中海の大島で、かつてヨーロッパからは「ヨーロッパの終わるところ」、オリエント(東洋)からは「オリエントの玄関」と呼ばれていた。西寺氏はジョージ・マイケルがルーツに持つ「オリエンタルな憂い」こそが、西欧諸国のみならず、世界中の大衆から支持を得てきた秘密ではないかと推察している。西寺氏は小学六年生の時に担任の先生に「ケアレス・ウィスパー」を聴かせたところ、「日本語にしたら演歌というか、ムード歌謡のようだな」と言われたという。
 
Wikipediaでは「ケアレス・ウィスパー」は高校生時代にジョージ・マイケルが書いた曲をもとに、発表時に相方のアンドリュー・リッジリーが手を加えたとなっているが、これはかなり怪しい。確かにアンドリューは共作者としてクレジットされているが、当時から「作詞・作曲もしない、デュオなのにハーモニーもしない、ギタリストなのに楽器は器用ではない」どころか、そもそもレコーディングに来ないこともあったそうだ。事実、ジョージがスタジオで製作期間中にパブで泥酔し、パパラッチと乱闘してはゴシップ誌を賑わしていたという。僕が当時購読していた雑誌『ミュージック・ライフ』の年始川柳企画でも、「隣は何をする人ぞ」といじられていた。
 
アンドリュー自身、このことは認めており、当時「ジョージがほぼすべての曲を書き、プロデュースしているが、あなたも自分の『我』を出したくならないのか?」というメディアの意地悪な質問に、こう答えているそうだ。
 
「そんなことは、別にする必要はないんだよ。ジョージの書く曲は、僕の好きなタイプの曲でもあるんだ。だから無理に、僕が自分の音楽の趣味を前面に出す必要はないのさ。そういう点でふたりがぶつかり合うことは、まったくないんだ。とにかく彼の書く曲は、僕がこのバンドのメンバーでなかったら、すぐに買いたくなるような曲なんだ」
 
アンドリューは今でも多額の印税収入を得て、サーフィンやゴルフ三昧の悠々自適な暮らしを送っているという。一方、ジョージはWham!解散後のソロ第一作『FAITH』で世界的な成功を収めたが、その後は公然わいせつ罪、ドラッグ所持、自動車事故などでアンドリュー以上にゴシップ誌を賑わす立場になってしまった。
 
噂話をいくらしても結局のところ、事実は小説より奇なり、なのかもしれない。
 
◆追記
Wham!ラスト・クリスマスは数多くのアーティストにカバーされている。一曲一曲YouTubeを貼るのは面倒なので、まとめ記事をリンクさせていただく。
 
 
 
僕はカバー・ソングもクリスマス・ソングも好きで、メジャーなアーティストはあまり聴かないけれども、iPodに18曲も入っていた。友達と楽しく盛り上がるならRap All Starsのヒップホップ・カバー、Whigfieldのハウス・カバー、Mafia & Fluxyのレゲエ・カバー。恋人と二人でしっとりとしたいなら日本人歌手noonのジャズ・カバー。お子さんがいる家族なら、スターバックスがクリスマス企画盤でリリースした『Kids Christmas』収録のボサノヴァ・カバーが可愛らしい。極めつけは、ノルウェーのアコースティック・デュオ、King of ConvenienceのErlend Oyeのカバー。寂しげなギターの弾き語りで、独りでクリスマスを過ごすならもってこいである。
 
日本でも織田祐二、松田聖子らがカバーしているが、個人的にはEXILEの日本語歌詞はいただけない。本の筆者、西寺郷太氏も自身のバンドNona ReevesWham!のカバー・アルバムをリリースしており、当然ラスト・クリスマスも収録されている。本を読んだ後だと、西寺氏がどんな思いでラスト・クリスマスを歌ったのかといろいろ考えたくなるが、Wham!に対する愛は日本一、いや世界一なことは確かだ。
 
追々記
ジョージ・マイケルは2016年12日25日に亡くなった。
 

 

 

 

噂のメロディ・メイカー

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"CHOICE III" BY NONA REEVES