二年足らずの転校生~2016年はフリッパーズ・ギター25周忌


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これから夏休みという一学期の終わり、僕が通う学校に、急に男子の二人組が転校してきた。
 
二人は、これまで僕らが見たことのないお洒落な格好をしていて、僕らが知らない音楽や映画をたくさん知っていた。二人は瞬く間にクラスの人気者になり、大人である先生も一目置く存在になった。みんなが仲良くなりたがったが、彼らは自分達のお気に入りとしか付き合わなかった。
 
僕も二人が話す音楽や映画のことが気になり、できれば仲良くなりたいなと思っていたが、時々彼らが嫌いな奴を口汚く罵るのは苦手だったし、ご機嫌とりの取り巻き連中はもっと嫌いだった。
 
ところが、次の次の年の秋が始まる頃、二人は突然、それぞれ別の学校に転校していった。お互いの趣味が変わって喧嘩別れしただとか、同じ女の子を好きになって取り合っただとか、取り巻き連中が噂話をすることはあったが、クラスのほとんどは二人のことを忘れた。
 
僕は結局、二人と話さずじまいだったが、彼らが好きだった音楽や映画のことは今でもよく覚えている。
 
 
なんてね。陳腐な例え話だが、これが僕のフリッパーズ・ギターの印象である。
 
大学一年生の時にバイトしていたレンタル・レコード屋に『海へ行くつもりじゃなかった』のCDが一枚入荷し、「これ良いよ」と2つ上の先輩がかけた。「ビートルズみたいだ」と先輩に言った。まだ流行りの洋楽や邦楽しか知らない自分にとっては最大級の誉め言葉のつもりだったが、先輩に「いや、ネオアコだよ。オレンジ・ジュースとかモノクローム・セットとか」と、知らない音楽ジャンルとバンド名を言われた。さらに「あれ?邦楽コーナーに置くんですか?英語ですけど」と僕が言うと、「いや、日本人だよ。俺らとあんまり歳変わらないみたいだよ」と言われ、さらに驚いた。
 
(余談だが、若杉実氏著『渋谷系』によると、ポリスターのディレクターの岡一郎氏は、フリッパーズ・ギターの前身バンド、ロリポップ・ソニックのデモ・テープを聴いて、ビートルズ的だと感じたという)
 
ちょうど、ストーン・ローゼズのデビュー・アルバムが話題になり、イギリスのインディーズ・シーンが盛り上がっていた。こちらにもタイミングよくハマったため、ライブハウスやレコード屋でしょっちゅうフリッパーズ・ギターの二人を見かけるようになった。
 
偶然にも大学の音楽サークルの先輩がロリポップ・ソニックの頃からのファンで、仲もよく、「学園祭に誘うよ」と言ったことがある。サークルで模擬店クラブをやっていたので、DJを聴いて貰えるかもと緊張した。結局二人は来なかったが、カジヒデキさんが来て、モノクローム・セットの「Jacob’s Ladder」で踊ってもらえたのは、いい思い出である。
 
フリッパーズ・ギターのファンジン『FAKE 』を作っていた中沢明子さんと大塚幸代ちゃんと知り合い、FAKE主催のクラブ・イベント『FAKE HEAD’s NIGHT』でDJをする機会もあった。ヘブンリーのライブを見に行った時に、小山田圭吾さんがいたので、「DJやります」とフライヤーを渡したが、来て貰えるどころか、開催直前にフリッパーズ・ギターが解散してしまった。
 
(FAKE HEAD's NIGHTのこと↓)
 
ライブは『海へ行くつもりじゃなかった』のリリース後と、『ヘッド博士の世界塔』のリリース後の2回見たが、前者はウチ輪乗り、後者はオリーブ少女満杯で酸欠と、あまりいい印象は正直ない。
 
今でも3枚のアルバムは時折思い出しては聴く。特に『カメラ・トーク』は、個人的に思い入れがある。このアルバムのおかげで黄金の七人クロディーヌ・ロンジェを知り、映画音楽やソフトロックを聴くようになったのだから。
 
クイック・ジャパン38号の解散10周忌企画「ノー・モア・フリッパーズ・ギター」でも書いたが、フリッパーズ・ギターが残した最大の功績は、音楽を作る人(ミュージシャン)、売る人(CDショップ)、聴く人(リスナー)がつながったマーケットを誕生させたことだと思う。事実、彼らが元ネタにしているからということで、再発されたCDは数多くあり、それによって今まで聴いたことがなかった素晴らしい音楽に出会えた人は当時、多かったはずだ。
 
フリッパーズ・ギター解散から四半世紀が経ち、彼らが元ネタにした映画音楽、ソフトロック、サイケはもちろんのこと、ネオアコもマンチェも前世紀の遺物である。しかしそんな時代の隔たりなど、CDからさらにストリーミング再生に移行し、過去の音楽にも自由にアクセスでき、総てのジャンルの音楽が(一応は)平等に陳列される今では、関係のないこと。良い音楽はいつ聴いたって良いのだから。
 
昔語りを老害とする向きもあるが、25周忌を迎えたフリッパーズ・ギターが、未知の音楽の世界の扉を開くきっかけになれば、と思う。青春は一度だけ、かもしれないが、音楽に閉じ込められた輝きは不朽なのだから。
 
 

僕の東京レコ屋ヒストリー

若杉実さん著『東京レコ屋ヒストリー』を読み終えた。日本最古の輸入レコード店から、1970年代の海外買い付け事情、1980年代に拡大した輸入レコード屋の栄華、1990年代の“渋谷系”を産んだ宇田川町のレコード屋の争い、そして現在一部でまた盛り上がりつつあるレコードの状況まで、綿密な取材で綴られており、とても読み応えがあった。

 
という訳で毎度のことだが、のっかって、僕の東京レコ屋ヒストリーというか、思い出話。初めて輸入レコード屋に行ったのは中学生で、渋谷の宇田川町にあった頃のタワーレコード(現在サイゼリア)。洋楽を聴き始め、雑誌『ミュージック・ライフ』を熱心に読んでいた頃で、巻末に掲載されていたイギリスのヒットチャートで当時1位だったが、日本ではまだリリースされていなかったポール・ハードキャッスルの12インチシングル「19」が欲しくて、行ったはずだ。
 
地元の小さなレコード屋(千代田商会というレコード屋とは思えない屋号)しか行ったことがなかったので、タワーレコードの広さに驚き、店内をうろつくメタル・ファッション、パンク・ファッションの客にびびった。中学生のお小遣いで12インチシングルを一枚買うのがやっとだったが、見たことのないレコードのジャケットを眺めるだけでも楽しかった。しかし、何度か行くうちにタワーレコードアメリカのレコード屋であることがわかり、僕が好きだったイギリスの音楽に強いCISCO(2007年に閉店)を知り、行くようになった。
 
大学生になり、アルバイトをするようになってからは、レコ屋通いが日課になった。1989年にストーン・ローゼズのデビュー・アルバムがリリースされ、UKインディーズに夢中になり、愛読書が「ロッキング・オン」に変わった。NHKの衛生放送の番組「トランスミッショッン」で大型新人と紹介されたRIDEのデビュー12インチシングル(通称:赤RIDE)が欲しかったのだが、まだCISCOに入荷されていなかった。所属していた大学の音楽サークルの先輩に渋谷にある輸入盤屋のZESTに行けばあると教えてもらったのだが、行ってみたら雑居ビルの小さな一室で、すごい緊張したのを覚えている。
 
やがて渋谷にレコ屋・CD屋が次々とできた。WAVE(現在のLOFT)、HMV(現在のパチンコ屋マルハン)と大型店がオープンし、イギリスのジャイルス・ピーターソンや日本のUnited Future Organizationなどによるジャズ・ブーム、橋本徹氏主宰のサバービアによるフリーソウル・ブームが起きてからは中古レコード屋が一気に増えた。当時僕がよく通っていたのは、SOUL VIEW、PERFECT CIRCLE、RECORD FINDER、FANTASTICAなど。中でも、Hi-Fi Record Storeが一番好きで、レコードだけでなく、店長の大江田信さんの音楽話を聞くのが楽しみだった。ハワイの音楽に興味を持った頃、大江田さんが大好きなハワイのスラッキー・ギターのお話を聞かせてもらい、「こういうの好きなんじゃないかな」とわざわざバックヤードから取り出してきて、売ってもらったRay Pelartaのレコードは今でも宝物だ。
 
大江田さんは、「レコード屋は対面接近商売」だとよく仰っていた。
「SPの時代はそれこそ漢方薬の薬屋さんみたいなもので、おじさんがちょこんと座っていて、その後ろにレコード棚が並んでいた。またはSPをお屋敷にかついで行き、聴いてもらって買ってもらっていた。レコード屋はいわば『番頭のいる商売』で、僕はそんな店を目指しているんです」(モンド・ミュージック2より一部抜粋)

2000年代に入ると、渋谷宇田川町のレコード屋ブームも下火になり、通っていた輸入盤屋・中古屋がどんどん閉店していった。僕も体を壊して仕事を休んでいる間に、レコ屋に全く行かないようになってしまった。ところがDMRの跡地にHMV Record Shopが開店し、2013年からはレコード・ストア・デーも始まり、レコードに対する注目が盛り上がりつつある。事実、CDの売上が下降し続ける一方で、レコードの売上は増加傾向にある。

http://matome.naver.jp/m/odai/2141872304627860001

もっとも、レコードの売上が増えても、それを売るレコード屋が活性化してこそだと思う。若杉実さんも書いているように、レコードはもとめるものではなく出会うものであり、その出会いをもとめてレコード屋に行くのであって、その出会いには大江田さんが言う番台のような人がいてほしいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

東京レコ屋ヒストリー

東京レコ屋ヒストリー

 

 

町の中華料理屋さんが好き


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妻が出かけていたり、残業で遅くなると、大抵中華料理屋で夕飯を食べる。中華料理屋と言っても、本格的な店ではなく、日本人または在日の中国人が経営している町の中華料理屋。天津飯、タンメンといった本場の中国にはない、日本人が考案したメニューがある大衆的な店が好きだ。

 
最近は渋谷宇田川町の某店によく行く。別に隠れた名店というわけではない。なにしろ交番の近くにあるのだから。カウンターと四人テーブルが2つの小さな店で、腹を空かせた男達でいつも混んでいる。たまにいかにもの渋谷ギャルが餃子を摘まんでいることもあるが、どこにでもよくある町の中華料理屋だ。
 
よく注文するのはスーラータンメン+半チャーハンのセット。スーラータンメンを食べつつ、酸っぱ辛いスープでチャーハンを流し込むのが好きだ。冷たい空気で冷えきった体が直ぐに暖まるから。
 
町の中華料理屋では、大抵音楽は流れていない。カウンター中心の店で一人で来てる客が多いので、話し声もあまりなく、皆黙々と食べる。店員が片言で「○○ラーメンセットー」と注文を繰り返す声だけが店内に響く。
 
食べ終わったら、「ごちそうさん」を言い、会計を済ませ、さっさっと出ていく。店に入って出るまで20分ぐらい。あっという間だが、自分では結構気に入った過ごし方である。
 
小西康陽さんのエッセイ『これは恋ではない』でも、好きな食事として町の中華料理屋さんの話が出てくる。僕はこのエッセイが愛読書なのだが、と言っても別に小西さんの真似をしているわけではない。男の子はみんな、女の子が好きなように、町の中華料理屋さんが好きなのだ、きっと。
 

 

 

 

これは恋ではない―小西康陽のコラム 1984‐1996

これは恋ではない―小西康陽のコラム 1984‐1996

 

 

 

 

 

なぜ今さらブログを始めたのか~人生は驚きの連続だ。

2015年が終わる。振り返ってみれば、今さらブログを始めるとは思っていなかった。

きっかけは、ライターの大塚幸代ちゃんが亡くなったこと。彼女の訃報があってから、ネットに垂れ流される書き込みを見ていたが、クイックジャパンオザケンの追っかけをした非常識なライターという認識が大半だった。それを見ていると自分までそう思ってしまうような気になり、自分の覚えている幸代ちゃんのことを書き留めておこうと思ったのだ。

幸代ちゃんが記憶の箱を開けたのか、不思議なことにその後、ちょっとした“渋谷系リバイバル”が起きた。小沢健二の雑誌『Monkey』の寄稿、小西康陽のPIZZICATO ONEのアルバム『わたくしの二十世紀』と野宮真貴のアルバム『世界は愛を求めている。~野宮真貴渋谷系を歌う』のリリース&ライブ、サバービアの名盤CD再発、樋口毅宏の小説『ドルフィン・ソングを救え!』の発刊…。渋谷系が好きだった人とのTwitter相互フォローも増えた。

フォロワーさんのツイートで、小沢健二が「人間は12月になると回顧に入るから、1年の十二分の一を回顧に費やしていることになる」と何かの雑誌のコラムで書いていた、というのを読んだが、自分は12月になるとどころか、一年中回顧に費やしているようなものだった。もう人生の半分を生きたのだから、昔語りが増えるのも仕方がないかもしれないし、「その素晴らしさを伝えていくのが、愛する者の務めではないだろうか」(『ドルフィン・ソングを救え!』)とは思う。

ただ、これからもまだ最良のものが来ることを願うのなら、ノスタルジーに浸ってばかりはいられない。年をとって少しは賢くなっても、何かの助けにもなるわけではない。人生は驚きの連続なのだから。


ア・ライフ・オブ・サプライジズ

ア・ライフ・オブ・サプライジズ


僕の下北沢ものがたり~early 90’s~

この間、祖師ヶ谷大蔵にライブを見に行った帰りに下北沢で乗り換え、井の頭線に乗ろうとしたのだが、複雑な地下の迷路で困惑した。考えてみれば、下北沢の駅が地下になってから行っていなかった。

 
僕が下北沢にいちばん行っていたのは、90年代の始めの頃。通っていた大学が小田急線沿線にあり、下北沢まで急行で一駅だったので、何かにつけてはよく行っていた。
 
まずは、中古レコード屋レコファン、イエローポップが定番で、一番のお宝発掘はレコファンでポール・ウィリアムスの『サムデイ・マン』、イエローポップでアル・クーパーの『赤心の歌』(共に帯付き日本盤)だが、そんなお宝を発掘することはしょっちゅうあることではなく、どちらかというと暇潰しにレコードを見るという感じだった。
 
DJを始め、ジャズやソウルを聴くようになってからは、フラッシュ・ディスク・ランチに行き始めた。新入荷のレコードを放出する土日に並び、ギル・スコット・ヘロンの『It’ Your Word』を手に入れたのは忘れられない。といっても、これまたそんなレア盤を見つけることはめったになく、客にレコードの扱い方を口煩く指導する椿正雄店長の姿の方が思い出だったりする。
 
レコードを探せば、当然腹も減る。下北沢は安くて旨い店の宝庫だ。なかでも、「世界で3番目にうまい」(1番うまいものはあなたのおふくろの味、2番目はおやじのスネの味、3番目は珉亭のそばの味)の中華料理屋の珉亭はしょっちゅう通った。今でも、この店の江戸っ子ラーメンがいちばん美味しいラーメンだと思う。呑みなら、ジャンプ亭かにしんば。ジャンプ亭はじゃんけんに勝つと飲み代をタダにしてくれるが、残念ながら勝った覚えはない。 
 
まだ遊ぶ余裕があれば、ZOOかCLUB QUEで踊った。ZOOは、瀧見憲司さんのLOVE PARADEにフリッパーズ・ギターの二人がよく来てたことで有名だったが、僕は大学の先輩にYASSさんのクラブ・サイキックスに連れてってもらっていた。YASSさんとはその後、Budgie Jacketとb-flowerがシェルターでライブをやった時にDJとして共演することができ、僕がLotus Eatersをかけると、YASSさんに「懐かしいなぁ」と言ってもらえたのを覚えている。CLUB QUEはフリッパーズ・ギターのファンジン「FAKE」主催のFAKE HEAD’S NIGHTで共演したOさんがDJをやっていたSome Candy Talkに行っていた。
 
夜遊びを楽しんだ後は、ぶーふーうーで始発を待つのが常だった。閉店を惜しむツイートが多かったが、個人的には出される食事はお世辞にも美味しいとは言えなかったというのが正直なところではある。
 
大学を卒業し、社会人になってからは下北沢にはあまり行かなくなり、代わりに宇田川町に中古レコード屋がたくさん出来たため、渋谷に行くようになった。『下北沢ものがたり』のフラッシュ・ディスク・ランチの椿正雄店長のインタビューで、サバービアの橋本徹さんの「渋谷系はもとを正せば下北沢」説が出てくる。橋本さんもフラッシュィスク・ランチに通っていたからである。
 
そういう意味では、僕にとって下北沢は、自分の音楽趣味のルーツとも言える街だ。レコファンもイエローポップもZOOもなくなってしまったが、こうやって思い出噺を綴り、伝えることが、少しでも恩返しになればと思う。
 

 

 

 

下北沢ものがたり

下北沢ものがたり

 

 

 

 

 
 

クラブでレッツ・ダンスまたはパーフリ・ギャルのハート鷲掴み計画~1991年のクラブ・プレイリスト再現


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実家の部屋の整理をしてたら、クイック・ジャパン38号(2001年8月発行)が出てきた。大塚幸代ちゃんが企画した「解散10周年記念特別企画 ノー・モア・フリッパーズ・ギター」が掲載された号である。

 
僕は「これから“フリッパーズ・ギター”を聴く人のためのディスクガイト」を執筆したのだが、その中で1991年のクラブ・プレイリストを紹介した。読み返すと懐かしくも笑える内容だったので、再録してみたい。
 
 
~~~~~~~~~以下、再録~~~~~~~~~
 
 
 
 今でこそ“クラブ”は、普通に遊びに行く場所の一つになったが、80年代はなんか恐くてヤバイ場所というイメージが強かった。それが90年代になってから、いわゆるマンチェスター・ブームの伝来、そしてフリッパーズ・ギターの登場によって、英国の音楽を回すクラブ・イベントが急速に増えた。
 当時、パーフリ・ギャル&男子が必ず行っていたのが、今は亡き下北沢のZOOでやっていた“LOVE PARADE”。DJは、CLUE-Lレーベル代表でライターの瀧見憲司氏。後にジャズやソウルまで幅を広げた氏の選曲眼は、まさに90年代の渋谷系ポップスの変遷そのものだった。その眼は、時として、回っている盤をチェックしようとDJブースを覗く客を、鬱陶しそうに睨み返すものになったが。
 そんな瀧見氏に負けじと(?)、素人DJによるクラブ・イベントも数多く開かれた。僕も当時、そんな素人DJのひとりで、心のベスト15はこんな曲だった…って、それはスチャダラ&オザケンか。
 
●当時の典型的イベント・サンプルを誌上再現!!
「クラブでレッツ・ダンスまたはパーフリ・ギャルのハート鷲掴み計画」
DJ:トオルa.k.a. スケル“当時21歳”
 
1.Friends Again(Long Version)/The Flipper’s Guitar
まずは、当時Budahレーベルのコンピにしか収録されていなかった前奏の長いバージョンで、ギャル&オタクの心を鷲掴み。
 
2.Delilah Sands/The Brilliant Corners 
“パッパッパラッパ”コーラスに合わせ、トンボの眼を回す仕種を両手でやるのがお決まり。
 
3.Yeah!(Single Version)/International Resque 
アルバム・バージョンは良くないので、7inchで回すのが通。
 
4.Dying For It/The Vaselins 
サビの“Ah~, Haging On”で絶叫する野郎多し。
 
5.Beatnik Boy/Tallulah Gosh 
思わずタテノリ跳ねをしてしまい、「あの娘、元ビーパンよ」と後ろ指さされ、赤面するギャル。
 
6.There She Goes /The La’s 
聖歌隊のようにみんなでサビの“There she goes~”を大合唱。
 
コーラスの“ア ハァン”でスカートをまくる真似をするプチ・セクシー・ダンスが一部ギャルの間で流行。
 
8.Nothing Can’t Stop Us/Saint Etienne
アンニュイ気取りで、カウンターで頬杖ついてたカヒミ・カリィ似のあの娘もこの曲だけは踊ってくれた。
 
9.Come Together/Primal Scream 
ボビー・ギレスピーの真似をして体をクネクネさせる野郎。それを見て「あいつボビ男よ、気持ち悪い!」と、ひくギャル。
 
10.The Only One I Know/The Charlatans 
とりあえず、みんなマスカラふるでしょ。
 
11.Three Cheers For Our Side/Orange Juice 
パーフリの1stのタイトルにもなってるし」と回すが、ギャル受けせず、後悔。
 
12.The Camera Loves Me/The Would-Be-Goods 
ベレー帽ギャル殺しのこの曲で、ネオアコDJの面子を取り戻す。
 
13. Jacob’s Ladder/The Monochrome Set
曲のエンディング間際のドラムだけのパートはみんな手拍子。
 
14.My Favorite Shirts/Haircut 100
さぁ、“Boy meets girl~”で、みんな片手を上げて!
 
15.Pillar To Post/Aztec Camera 
サビになると、みんな両手を広げ満面の笑み。
 
16.午前3時のオプ/The Flipper’s Guitar 
「いま午前3時です」とニクい選曲(と思っているのは自分だけ)で逃げるDJトオルa.k.a. スケルであった。
 

 

 

 

bossa nova 1991 shibuya scene retrospective

bossa nova 1991 shibuya scene retrospective

 

 

 

 

愛こそがいつの時代も歌のスタンダード~世界は野宮真貴を、渋谷系を、愛を求めている。

世界は愛を求めている。What The World Needs Now Is Love~野宮真貴渋谷系を歌う。は、かつて渋谷系を愛聴した者としては、買う義務があると発売前から楽しみにしていた。

購入してから最初から最後まで一曲も飛ばすことなく、繰り返し聴いている。この記事を書いてる今も、度々キーボードを打つ手が止まり、一緒に歌ってしまう。ピチカート・ファイヴバート・バカラックロジャー・ニコルズ、トワ・エ・モア、松任谷由美山下達郎、スクーターズ、EPOフリッパーズ・ギター観月ありさ小沢健二。選曲の素晴らしさに脱帽してしまう。

この選曲ラインアップを見て、「バート・バカラックロジャー・ニコルズは洋楽でしょ」とか、「ユーミンや達郎、松田聖子EPOまで渋谷系?」と思う人もいるかもしれない。

バート・バカラックロジャー・ニコルズは一部のポップスマニアの間では知られていたかもしれないが、彼らのアルバムがCDで再発され、手に入りやすくなったのは、渋谷系といわれたアーティスト達が元ネタにしたり、レコメンドしたからであり、渋谷系のルーツと言える。松任谷由美の初期の荒井由美時代は、細野晴臣が在籍したキャラメル・ママ/ティンパンアレーが制作に関わっており、ピチカート・ファイヴ細野晴臣が作ったレーベル、ノンスタンダードからデビューしている。山下達郎は自ら「かつては元祖夏男、いまは元祖渋谷系」と語っている。これは達郎がパーソナリティを務める長寿ラジオ番組「サンデー・ソングブック」で渋谷系アーティスト達がルーツにしたような良質なポップスを紹介していたからであり、その達郎に大きな影響を与えた大瀧詠一のラジオ番組でピチカート・ファイヴ小西康陽ロジャー・ニコルズを知ったという。松田聖子の「ガラスの林檎」は作詞は松本隆、作曲は細野晴臣はっぴいえんどコンビだ。さらにEPOはレコーディングでアメリカを訪れた時にロジャー・ニコルズに会ったことがあるという。

(「渋谷系御三家オリジナル・ラブが選ばれてない」という意見はあるだろうが、昨年リリースされたライブアルバム『実況録音盤 野宮真貴渋谷系を歌う』で「月の裏で会いましょう」を取り上げているし、「接吻」をカバーするアーティストが多いので、あえて外したのではと思う。ちなみに田島貴男はライブで「オレは渋谷系じゃねえ!」と発言したことがある。その言葉の後には「…だって大阪育ちだから」というオチがあるが)

何よりも僕が蘊蓄を述べる前に、アルバムの解説でその意図が記されている。

野宮真貴と坂口修が“渋谷系スタンダード化計画”でピックアップした音楽はごくごく真っ当な渋谷系である。60年代も90年代もいい音楽という基準は変わらないのだから。(中略)渋谷系は決して流行りモノではなかった。素晴らしい音楽を探し、伝えるための出来事だったのだと。

このアルバムのもう一つの大きなテーマはアルバム・タイトル通り、“愛”だと思う。あらためて言葉にすると恥ずかしいが、選ばれた曲の歌詞は“愛する”という多幸感に満ち溢れている。バート・バカラックの「What The World Needs Now Is Love」の小西康陽が書き下ろした日本語訳詞では、

愛しあう心が 必要かもね 愛し合う気持ちが 何よりも大事なの もう何も要らないでしょ 山も川も草原も 何もかも欲しいものは この世に溢れている

と、高らかに愛しあう心の大切さが歌われている。この「世界は愛を求めている」ということこそ、いつの時代にも不変的なことであり、スタンダードとして歌い継ぐべきテーマにふさわしいものではないだろうか。

いろいろ書いたが、何より願うのは、このアルバムを僕のように90年代を過ごしたオヤジが懐メロとして聴くだけではなく、今の10代、20代の若い子達が「渋谷系って知らないけど、いい曲だね」と聴き継がれ、歌い継がれ、スタンダードとなること。あれからもう四半世紀近くたつのだから、そろそろそうなってもいいと思うのだ。

世界は愛を求めてる。 What The World Needs Now Is Love~野宮真貴、渋谷系を歌う。~(初回限定盤)

世界は愛を求めてる。 What The World Needs Now Is Love~野宮真貴、渋谷系を歌う。~(初回限定盤)