閉じて 開いて
手を洗って 閉じて
また開いて
手を洗って
その手はどこへ?
昨年の緊急事態宣言から一年経ったが、今度はまん延防止等重点措置が4月12日から東京でも適用されるというニュースがSNSのTLに流れてきた。だからと言って正直なところ今の生活に大きな変化が起きるわけでもないのだが、ここのところ買い物だの浅井直樹のライブだの浅田真央のサンクスツアーだの少し気が緩んでいたのは確かだ。
コロナ禍で毎日やることでいちばん増えたのは手洗いだが、いちばん触っているのはスマホだ(このブログもスマホで書いている)。片道1時間以上の長期間通勤なので電車に乗っている間はスマホのサブスクで音楽を聴きながらSNSを眺めている。帰りは最寄り駅に着くとテレワークの妻が迎えに来て一緒に夕飯の買い物をするのだが、家に帰って手を洗うまでは手をつなぐことをためらようになった。
妻や母の家族、職場の人以外は会わない生活が続くなか、SNSの依存度は正直高まっているし、音楽の聴き方もどんどんサブスク中心になっている。ただ新作を聴く機会は明らかに増えた。試聴機代わりにサブスクを使うのはよく言われることだが、サブスクがアルゴリズムで勧める音楽は大抵外れることが多いので、結局情報欲しさにSNSに頼る。昔レコ屋やCDショップに行くと知り合いの店員に「これいいよ」と勧められるのに近いとも言える。
正直20~30代の頃の方が中古屋で旧譜をあさっていた。未知のものを知る楽しさという点では旧譜も新作も変わらないのは確かだが、歳をとった今の方が新作を聴いているのは、コロナ禍の閉塞感から逃れたい気持ちの現れなのだろうか。同時代を生きる人たちがいま何を考えているのか、どんな気持ちなのかを音楽を通じて読み取りたいという思いが無意識のうちに働いてるのかもしれない。折坂悠太の「針の穴」はかなり今の気分に刺さるものだった。
路肩の天使が 私に言うことにゃ
程なくここらは 嵐の只中さ
そんなことわかってるから
手綱持たしてくれよ
今私が生きることは
針の穴を通すようなこと
稲妻に笑っていたい
針の穴を通すようなことでも
針の穴/折坂悠太
と考えながら結局触っているのはスマホであった。